いつか、星の数よりもっと
「……わかりました」

ちょこんと頭を下げて、緋咲は貴時の手を取る。

「トッキー、ごめん。帰ろう」

軽く引いた緋咲の手は、貴時の強い意志で振り払われた。

「トッキー、帰ろう」

もう一度手に触れると、またしてもパシッと強く払われる。
その視線は、すぐ近くで対局している盤面にのみ注がれていた。

「ねえ! トッキー!」

肩を掴んで引き離そうとするけれど、今度も身をよじって拒否されてしまう。

「トッキー……」

貴時はとてもおとなしく、ある意味で扱いやすい子どもだった。
何かに誘えば素直についてくる。
やってはいけないことは、説明すれば決してやらない。
5歳も下であるから同じ目線での会話はできないけれど、基本的に理解の早い貴時に、緋咲はストレスを感じたことがなかった。
どうしたらいいのかわからない。
頑として動かない貴時を抱えて帰るほどの力はない。
かと言って、ここに置いて帰るわけにもいかない。

「ねえ、トッキー! お願い! トッキー!」

半分泣きながら訴えても、貴時はそこを動かず、盤から目も離さなかった。

「将棋が好きなのは、弟くんの方?」

男性が貴時を見ながら緋咲に聞いた。

「はい。……あ、でも弟じゃなくて、同じ団地の子です……」

「あ、姉弟じゃないんですか」

「違います」

「あなたの名前は?」

「守口緋咲です」

男性は今度、貴時の前にしゃがんだ。
視界を塞がれて、貴時は盤を覗こうと首をあっちにこっちに動かすけれど、男性はそれを妨げて無理に視線を合わせた。

「自分の名前は言えますか?」

気圧されるように貴時は答える。

「いちかわたかとき、です」

男性は一度うなずいて、それから、

「市川君、将棋を指したいですか?」

と真剣な表情で聞いた。

「はい!」

間髪入れずにそう答えた貴時を、男性はカウンターの隣の応接セットに案内する。

「じゃあそこに座って」

男性が出してきた盤駒に貴時は目を輝かせたが、緋咲はひとり慌てた。

「あの! すみません! わたしたち、お金を持ってきてないんです……」

ははは、と男性は笑いながらうなずいて、それでも盤に駒袋から駒を広げる。
マグネットタイプの駒にはないザラザラとした音に、貴時は聞き入っていた。

「今日は特別。棋力をみるだけですからね」
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