いつか、星の数よりもっと
「失礼ですが、市川さん。棋力はどのくらいですか?」

沙都子が博貴の顔をみるので、その質問には博貴が答えた。

「妻はまったく指せません。私も、たまに遊びで指す程度で……」

「詰将棋はわかりますか?」

「7手詰くらいまでなら、大昔にやってました」

「では……」

と、大槻はカウンターの後ろに並んだ棋書の中から一冊持ってきた。

「詰将棋の基本になります。市川君にはさきほど簡単に説明しましたが、おうちでやらせてみてください。それで、またお休みの日にでもお越しください」

「貴時はまだ6歳です。詰将棋なんてできるんでしょうか?」

「できます。感覚的には、もう理解してますから」

自分のことが話し合われているのに、すでに貴時の気持ちは、隣の男性たちの対局に移っていた。
食らいつくようなその姿に、貴時の両親は何かを諦め、また決意したようだった。

「次の土曜日に連れて来ますので、どうかよろしくお願いします」


両親が説得しても、貴時は断固として帰らないと駄々をこねた。
これには対局を見られている男性たちも困ってしまい、苦笑いを浮かべている。

「次の土曜日また来るから。ね! 今日は帰ろう」

それほど声を荒げたことのない沙都子が、苛立ちを隠さずに腕を強く引くけれど、どこにあるのかわからないほどの力で弾き返す。
仕方なく父親が強引に抱えようとしたとき、大槻が再び貴時の前にしゃがんだ。

「市川君」

声色も音量も変わらないけれど、非常に厳しい声で、貴時も少しすくんだ。

「将棋は厳しいルールの中で行われるゲームです。ルールを破ったらその時点で負け。だから、ルールを守れないひとに将棋は教えられませんよ」

貴時の身体から力が抜けて、しょんぼりと小さくなった。

「他の人の迷惑になることはしないこと。時間や教室のルールは守ること。お父さんやお母さんの言うことはちゃんと聞くこと。約束できますね?」

「はい」

「お父さんから詰将棋を教えてもらってください。きっと強くなれますから」

「はい!」

驚くほどあっさりと貴時は教室をあとにした。
両親が「ありがとうございました」と頭を下げるのを見て、自分も「ありがとうございました」と頭を下げて。

この土地で将棋をする限り、大槻との出会いは必然である。
狭い土地の狭い将棋の世界、遅かれ早かれ顔を合わせることにはなっただろう。
けれど、最も早い段階で大槻の指導を受けられたことは、貴時にとって非常に幸運であった。
大槻は貴時が進む方向をいつでも真っ直ぐ指差して立っている、そんな存在だったのだ。





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