いつか、星の数よりもっと


土曜日の午後、沙都子が仕事に出るのと入れ違えるように緋咲はやってきた。

「ごめんね、緋咲ちゃん。よろしくお願いします」

「はーい、大丈夫だよ。おばちゃんもお仕事頑張って」

ひらひら手を振る緋咲の横で、貴時は無表情を作っていた。
緩めてしまったら母親に何か言われそうで、できるだけ不機嫌に。

「トッキー、何して遊ぼうか。あ、トッキーの部屋見せてよ。そういえば入ったことない」

許しを請うように顔を覗き込むので、貴時は黙ってうなずく。

「やったー! お邪魔しまーす!」

かつて物置部屋だったところは小学校入学を機に貴時の部屋になり、狭いながらきちんと片付けられていた。
兄のいる緋咲は男の子の部屋は散らかっているものと思っていたけれど、想像とはまるで違う。

「でも、やっぱり男の子だね」

カラーボックスの中にはミニカーや電車のオモチャが詰まった箱があり、部屋の色味も全体的に落ち着いている。

「親戚の人がよくくれるんだ」

ブロックにパズル、粘土、折り紙。
普通の家にあるものは一通りあるような部屋だけど、

「ここはさすがだね」

本のラインナップはほとんどが将棋関係だった。

「これ全部読んだの?」

「うん」

「これも?」

『決定版! 将棋名局大全』
緋咲が指差したその本は辞書ほどの厚さがある。

「うん。一応ひと通りは並べた」

「『並べる』?」

「それ棋譜だから。棋譜はそれを見ながら同じように駒を並べて勉強するものなんだ。それで手の流れとか、意味とか、思考なんかを勉強する」

「……ごめん。聞いてもわからなかった」

「うん。そうだと思う」

緋咲はバラバラバラッと本をめくる。
本のところどころには開いた癖がついていて、これが飾りでないことを証明していた。

「でも、トッキーがすごーく頑張ったってことはわかったよ。これ全部読むのだって大変だもん」

ニコニコ笑ったまま緋咲は本をカラーボックスに戻し、そのまま隣にあるベッドの下を覗き込む。

「さすがにここはまだか」

隙間には何もなく、きちんと掃除機もかけられている。

「何してるの?」

「何でもないよ。うちのお兄ちゃんはよくここに“大事なもの”を隠すからね」

怪訝な顔をする貴時に、緋咲はそれ以上教えるつもりはないようで、学習机の上にある将棋盤を指先で撫でた。

「トッキーの大事なものは、これだもんね」

窓から入る光が、微笑むその口元を掠めて、将棋盤の上に落ちている。
いとおしむような指が、光に浮かぶ黒いラインをなぞっていく。

「ひーちゃんの大事なものって何?」

「そんなのトッキーに決まってるじゃなーい」

盤に触れていた手で、今度は貴時の頭をグリグリ撫でたあと、緋咲は遠慮なくベッドに座った。
桃に似た香りがようやく少し遠ざかって、貴時も机のイスに座る。

「師匠って怖い?」

貴時は少し考えてうなずいた。

「見た目は、ちょっとだけ」

「どんな人?」

貴時は立ってカラーボックスから将棋雑誌を取り出した。
『石浜和之八段が分析 A級順位戦展望』というページを開いて写真を指差す。

「この人」

「あ、本当だ。怖そう」

「でもやさしくてかっこいいよ。将棋指せばわかる」

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