いつか、星の数よりもっと
貴時が石浜に初めて会ったのは、二年生になろうとする春休みのことだった。
目まぐるしく変化する環境の中で、当の貴時もそのすべてを把握していたわけではない。
それでもプロ棋士に会えるということが、とても貴重で重要だということは理解していた。
「はじめまして。市川貴時です。よろしくおねがいします」
緊張しながらも事前に練習した挨拶をきちんとこなした貴時に、石浜はニコリともせず、視線で部屋の隅に寄せてある脚付の盤を示す。
「早速、将棋を見よう」
本来必要な会話さえなく、石浜の指導は始まった。
付き添った父親と大槻は応接間で待たされ、ふたりの間でどんなやり取りがなされているのかわからない。
せっかく遠方から来たのだし、2~3時間じっくり指導して欲しいと思って待っていたふたりは、とうとう8時間待たされることとなった。
夜9時。
石浜とともに応接室にやってきた貴時は、疲れてはいたものの、顔は希望に満ちていた。
ほんのり頬を紅潮させ、
「弟子にしてもらった」
と、父親と大槻を驚かせたのだった。
どんな局面でどんな手を選ぶか、また対局に臨む姿勢など、動きの少ない競技にも関わらず、将棋にはその人の性格が如実に現れる。
幼い貴時は盤を挟んで師匠のその人柄に惚れ込んだらしかった。
緋咲には、髪の毛の薄くなった厳しい顔の老人にしか見えないけれど、貴時の憧れが本物であることは理解できる。
「そっか、そっか。いい師匠に出会えてよかったね」
緋咲はペラペラと雑誌をめくる。
当たり前だけど、将棋のことしか書いていない。
棋譜の解説や戦法の解説、インタビュー、コラム、詰将棋。
緋咲にわかるのは少ないカラー写真程度だった。
「トッキーも和服で対局したりするのかな?」
険しい表情で駒を持つ写真の棋士は、黒っぽい和服を着ていた。
『王位戦第三局は竹藤七段が制し、一勝二敗に』
「和服はほとんどタイトル戦だけだから、プロになってもそうそう着ないと思う」
「じゃあタイトル戦に出てよ。トッキーの和服見たいから。七五三のとき、メッチャクチャかわいかったんだもん!」
かんたんに言うなあ、と貴時は呆れてしまう。
タイトル戦に出るということは、タイトルホルダーを除いた全棋士の中で、一番になるということだ。
時にそれは、タイトル防衛よりも難しいとされる。
緋咲はいつもかんたんに、貴時に大きなことを迫る。
「がんばる」
満足そうに笑って緋咲は雑誌を閉じた。
「お腹すいたね。ホットケーキ焼いてあげるよ。ミックス持ってきたんだ」