いつか、星の数よりもっと
「大槻先生! こっち! こっち!」
「私は後ろで立って観ますから。どうぞ守口さんおひとりで……」
「私ひとりじゃ何やってるのかわからないですから。隣で教えてください」
尻込みする大槻を無理矢理引っ張って、緋咲は観客席の前から三列目に座った。
本当なら最前列で見たかったけれど、出遅れてしまったのだ。
貴時の顔が見える上手側寄りの席。
「……緊張します」
周囲は談笑したり、非常になごやかな雰囲気なのに、緋咲は手を握ったりこすり合わせたり落ち着きがない。
大槻はゆったり構えているけれど深く同調した。
「そうですね」
まだ時間はあるが何かする気持ちの余裕はなく、胃の奥からせり上がるような緊張にひたすら耐える。
「トッキーはこんな緊張も慣れてるんでしょうか?」
「ある程度は。でも少し勝手は違うでしょうね。奨励会には取材も入りませんし、タイトルホルダーと指せる機会は、プロ入りしてもなかなかありませんから」
強い棋士は予選でも上のクラスだったり、予選自体免除されていたりする。
従って若手や下位の棋士は、自分が勝ち上がっていかないと対局する機会さえない。
「三段がタイトルホルダーに勝てるものですか?」
大槻は事実と希望を織り交ぜ、慎重に言葉を選ぶ。
「『絶対に無理』ではない、といったところです」
「ちなみに可能性はどのくらいですか?」
大槻は考えるような間を取って、それから別の話を始めた。
「昨年、神宮寺リゾート杯という棋戦が新設されたんです。全棋士参加棋戦には珍しく女流枠、アマチュア枠、そして奨励会枠があります。そこで梅村王位は奨励会三段に敗れています」
奨励会三段でもタイトルホルダーに勝てる、しかも梅村王位に。
緋咲の胸にぽっと希望が灯る。
ところが。
「その奨励会員は、予選で市川君に勝って本戦に出場しました。昔小学生名人戦の決勝でも市川君は彼に負けています」
緋咲の脳裏に、髪の毛をぐしゃぐしゃにして困りながらも、闘志だけは消さない少年の輪郭がぼんやりと浮かぶ。
そして無表情の奥に涙を押し込めた貴時の姿も。
「その彼が梅村王位を破った。心中、期するところはあるでしょうね」
梅村にとっては負けられないと言ってもイベントのひとつに過ぎない。
何かを懸けるものではないだろう。
しかし貴時にとっては自分の力を示すものであり、ライバルとの戦いであり、未来を占う対局なのだ。