月は紅、空は紫
 この時代の人間は、清空に限らずよく歩いた。
 自動車や列車などの交通機関の発達していない時代なので当たり前と言えば当たり前のことなのだが、徒歩でない交通機関といえば籠や馬なのだが、馬は武士の位以外では荷物運搬にしか使ってはいけないもの、籠は高価なもので庶民がおいそれとは使うことが不可能なもので、庶民は徒歩で移動せざるを得ない。

 しかし、記録にも残るように、この時代の人間でも物見遊山の旅というものをしていたのである。
 それも、江戸から京へ、はたまた長崎へなどの長距離の旅行などもしていたというのだから現代人としては驚く他ない。

 その健脚を支えていたのが『難場歩き』と言われる歩き方である。
 これは特別な歩き方というのではなく、この時代の人間としては当たり前の歩き方であった。
 右手右足、左手左足を同時に出して、上半身を固定しながら歩くという動き方である。
 体幹が固定されることによって、身体にかかる負担を減らしてしまうという経験より生み出され、広まっていた身体操作術の一つである。

 明治時代に、軍隊による歩行術の修正というものが実施されたことによって姿を歌舞伎や能にのみに残す事になってしまったのだが――清空もこの歩法によって夜の闇が覆い尽くす京の町をくまなく歩き回っていた。

 片手には提灯を掲げて、他の者にあらぬ誤解を招いてしまわぬように腰のものは差してはいない。
 仮に誰かに姿を見られたとしても、酔っ払いが夜の街をうろついているとしか見えないように、清空自身が工夫しているわけである。

 そんな清空が、ひとしきり市中を歩き、見歩く場所を桂川のほとりに移した。
 時刻は夜の丑三つ刻――紅い月は、空高くまで昇っていた。
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