月は紅、空は紫
 布団を敷き、その中に潜り込んでしまえば十秒もあれば眠りに就くことが可能な男である。
 一度眠りに落ちれば、本人が満足するまでは起きることは無い。
 外部からいかなる呼び掛けがあろうとも――いや、眠っている真横で呼び掛けてさえ、この男――清空は目を覚まさない。
 それくらい、筋金入りの『寝太郎』なのである。

 その清空が、いざ眠ろうとして掛布団に手をかけたところで引き戸を叩いたのは清空を呼びに来た者にとっては幸運だったことであろう。
 空診療所の勝手を知ったる小夏や長屋の住民ならばともかく、戸を叩いて返事が無ければ住民が不在であると思うのはこの時代でも同様である。
 戸に鍵などは掛かっていないが、それでも返答が無いうちに扉を開けるというのはよほどに親しい仲でも無い限りは取らない行動である。

 この清空を訪ねて来た人物――東御役所の岡っ引き、小野田陣伍郎は清空の事をあまり知っているとは言い難い者である。
 故に、清空は眠りに就いてしまった後に訪ねて来たのであれば『留守であった』と勘違いして無駄足を踏まされることになっていたであろう。

「歳平さま、ご在宅でしょうか?」

 ドンドンと扉を叩く音と一緒に、小野田の野太い声が長屋中に響き渡った。
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