月は紅、空は紫
「ささっ! どうぞっ! 当主が是非ともお話をさせていただきたいと!」

 村木に案内され、清空が通されたのは道場ではなく、床の間に掛け軸があり、花の活けられた壷が置いてある応接間である。
 そこに、仁科剣術道場の当主である仁科菊之條が、高弟である村木と変わらぬような直立不動で待っていた。

「ようこそ当道場へ! 先生のこの度のご来訪、誠に光栄でございます!」

 御役所で聞いた様子とは大違いである。
 この仁科、御役所では一方的に事件の終了を告げるという無礼とも呼べるような振る舞いをした、と聞いていたのだが。
 どうにも、相手の立場によって態度を変えるような人間のようであった。

 それにしても、清空を出迎える態度が、この仁科と高弟の村木でまるっきり同じである。
 仁科道場では、剣術ではなく、こういった処世術のようなことを教えているのではないだろうか、と清空が疑いたくなった程にそっくりである。
 加えて、仁科菊之條の体型である。
 自身の名前を以って、剣術の道場を開いているということは――実情はともかくとして、とりあえずは一刀流の免許皆伝の腕前のはずである。
 それなのに、仁科の体型は村木を一回り大きくしたような、でっぷりというような擬音がピッタリな肥満体である。
 稽古を門弟に任せて、体型の崩れてしまった道場主というのも珍しいとまでは言わないが――それにしても、剣術を一度でも極めた人間には見えない。
 口先と、処世術のみで一つの道場を設立したのであろうということは想像に難くなかった。

 檜で出来た立派な卓を挟み、奥の座へと案内されて仁科と差し向かいとなる。
 卓の上には、道場を開く武家には不似合いな砂糖をたっぷりと使っているであろう茶菓子が供されている。

「それで――先生は当道場へどのような御用向きでいらっしゃいますか?」

 清空を前にして、まさに『固まっている』という表現がしっくりくるほどに緊張した様子の仁科がおもむろに話を切り出した――。
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