月は紅、空は紫
「それはもう、是非とも。先生の型を見せていただくだけで、我が道場の門弟にとってはこの上なき眼福でございます!」

 そう言って平野清山こと清空を見送った仁科菊之條は満足げな笑みを浮かべた。
 この浪人が、印可認状を携えてやって来た時には、『もしも門弟がコテンパンにのされでもしたらどうしよう』という不安で一杯であった。
 自分を含めて――剣術の実力者など存在していない道場である。
 仁科が得意なことは、剣術の腕ではなく……『宣伝』である。
 道場の名声を上げることのみに腐心した結果が、現在の仁科道場が門弟を二百人ほど抱えるまで隆盛を遂げた理由なのだ。
 強き者とは決して試合わず、闇では多数対一の試合もする。そうして、『勝った』という事実だけを喧伝し、道場の名声を高めてきたのだ。

 平野とやらが打ち込み稽古に参加しようと言ってきたのであれば、仁科は門弟全員でもって平野を打ちのめす考えであった。
 事故を装って、始めからこの浪人が来なかったという事にしようと思っていたのである。

 しかし、不安はあった。
 いかに全員で相手をするつもりであったとはいえ、相手は中条流の印可まで受けたような人物である。
 全員でやっても、なお勝ち目が無かったらどうしようという心配はあった。

 講談にもなっているような話に、宮本武蔵の『一条寺下り松の戦い』というものがある。
 吉岡一門当主である、吉岡清十郎が宮本武蔵によって洛外蓮台野で破られ、その敵を討たんとして吉岡門弟七十数名にて武蔵一人に挑んだのである。
 だが、ことごとく返り討ちにされてしまい、吉岡一門は滅んだという講談である。

 実力の伴わぬ仁科道場に、中条流の印可を携えた者――吉岡と同じ結果になる恐れは十分にあった。
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