月は紅、空は紫
 そのような仁科の思惑と、出来るならば稽古に参加するわけではなく門弟との接触のみを試みたい清空の思惑が一致して、清空は型だけを道場で披露して家路に就いたわけである。
 稽古を全て終えて長屋に着く頃には日は傾き始めており、清空としては今宵の月が紅くないことを祈るのみである。

 月は突然と紅い色を示すことがあり、それが幾日も続けば清空は見廻りの為に完全に夜型の生活を余儀なくされてしまう。
 ここ数日、昼間にも活動しなければならぬ事が多く、この上で月が紅くなっていると清空は疲労が溜まり過ぎて死んでしまうのではないか、とまで感じる。
 ただでさえ、昼間に寝ていることで長屋の住人から『医者の不養生』と言われているのに、本当に倒れてしまっては笑い話にもならなくなってしまう。

 長屋の井戸から見えた月は――幸いにも通常の黄金色であった。

 井戸で水を掬い、冷たい水を飲んで一息つこうか……そう思う間もなく、診療所の前には常よりも長い列が出来上がってしまっていた。
 清空が、紅い月が出てしまっていた事もあるのだが、診療所を休診にしていた為に、診察を受けれなかった患者が列を成して清空の帰りを待っていた――という次第である。

(やれやれ――)

 普段、慣れぬことをして身体もクタクタに疲れきっているのだが、この患者を全て診察しないことには一休みすら出来ない状況であることは間違いない。
 その事に、思わず清空の口からため息が漏れた――。
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