月は紅、空は紫
 戸の向こう側から聞こえてくるのは、若い男の声である。
 この時間に訪れるような知り合いは清空には居ない。
 仮に居るとしても、先ほども考えたような急患か――さもなければ御役所からの、中村の使いの者であろうか。
 だとすれば、御役所の使いであることを先に述べるであろうし、この訪問者はそのどちらとも違った様子である。

「何の――御用でしょうか?」

 警戒を一層強めて、清空は戸の外に居る人物に問い返した。
 貧乏長屋ではあるが、清空の家は診療所である。金目の物があると踏んだ、押し込み強盗でも来たのかもしれない――ふとそんな風に思った。

 戸を挟んで、清空と訪問者の間に一瞬の沈黙が訪れた。
 その沈黙に、清空が『やはり強盗の類か?』と疑念を抱きそうになった瞬間――ようやく訪問者は言葉を返す。

「桂川の一件で……と、言えばお分かりいただけるでしょうか?」

 その言葉に、清空は先ほどとは違った緊張を覚える。
 『桂川の一件』と、この訪問者はそう言ったのだ。
 この言葉が意味するものは――清空と鎌鼬が桂川で一戦交えた事ということなのか、それとも『仁左衛門殺し』に関することなのか。

 後者であるならば、どうして清空の元を訪れたのか説明がつかない。
 遺体を検分したとはいえ、清空はただの町医者である。
 事件に関する情報を何か握っているというのならば御役所に行けば良い話である。
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