月は紅、空は紫
「まず……自己紹介が遅れました。私の名をイシヅキと申します」

 訪問者は、自分の事を紹介しはじめる。
 清空はその様子を黙って聞きながら、ようやく囲炉裏の中で沸いた湯を二つの湯のみの中に注いで、その片方をそっとイシヅキに差し出した。

「ああ、ありがとうございます――私は遠野の出身でして……」

 清空から湯のみを受け取り、短く礼を言う。
 遠野の出身である事を告げてから、湯のみから湯を一口飲んで、イシヅキは一呼吸を空けてから自己紹介を再開した。

「京に来てから……かれこれ――二百年近くになります」

 そう言って、床に湯のみを置いた。
 『コトン――』という音が、診療所の中に響いた。
 清空も、理解の範疇を超えた言葉を出したイシヅキも、互いに黙ってしまったままである。
 しかし、黙ってしまった理由はそれぞれで違い、イシヅキは清空の反応を窺って次の言葉を出すまでを待っているだけで、清空はあまりの突飛な話に言葉を失ってしまっている。

 実際には五秒ほどの短い時間であったのだが、二人の間にそれよりは余程長く感じる沈黙が続き、囲炉裏で燃えている薪が高温によって『パチッ』と爆ぜる音を立てるのを合図にしたように、ようやく清空が言葉を取り戻す――。

「に、二百年?――」

 清空が驚くのは無理もない。
 この時代から二百年前といえば――まだ江戸時代さえも迎えていない。
 清空など影も形も生まれていないような時代である。
 その時代から京の町に居ると言われて――『ああ、そうですか』などと返事が出来るものではない。

 しかし、イシヅキは事も無げに清空の驚きの言葉を受けて、平然と言葉を返した。
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