月は紅、空は紫
 その後、小夏は無事に診療所に運ばれた。
 診療所での診断は、何か食当たりにでもなったのではないか、というものであった。
 実際に、診療所に運ばれた時点での小夏は元気そのもので、医者としても何を診れば良いものやら、と悩んでしまう始末であった。

 小夏は、実は清空に助けられた時に意識はあったのだ。
 ただ、自分の身体を絶え間なく襲ってくる痛みによって言葉が出せなかっただけだったのである。
 胆を中心に津波のように襲う痛みに耐え、それに加えて、戸板から投げ出された時に直接的な傷みが小夏を襲った。
 しかし、その直後に――小夏の身体から激痛が嘘のように消え去った。
 まるで、春に淡雪が消え去るが如く、小夏の身体からことごとく痛みが消えて行ったのだ。
 急に暖かいものに包まれた――その時に小夏が感じた心地である。

 ただ、それまで痛みに耐えていた疲労のために、小夏は声を出すことが出来なかった。
 しかし――少女の脳裏にはきっちりと刻み込まれたのだ。

 自分を地獄のような痛みから救ってくれた、痛みが消えた瞬間に、うっすらと開いた瞼の先に見えた――清空の優しげな表情が少女が初恋に落ちた瞬間であった。
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