月は紅、空は紫
 但馬屋の一行が、清空の下に礼に現れたのは、それから二日が経ってからのことである。
 その日は、たまたま昼間に起きていた清空と一行は顔を合わすことに成功した。
 『ご縁があれば』と別れ際に言ったものの、まさか礼に訪れて来るとは思っていなかった清空は驚いたものである。

 ただ、一行が長屋の住人に清空の家を尋ねたところ、誰も清空の名前を知っていなかったというような状況は発生していた。
 長屋の住人の誰も、清空の顔は分かっていても、清空の名前を知りはしなかったからである。

 一緒に来ていたお民が、清空の外見の特徴を住民に説明して初めて、『ああ、五件目に住んでいる寝太郎ね』と分かったような次第であった。
 清空の家に着いた一行は、家の中に招かれてひとしきりの礼を済ませた。
 金子の礼は断られたので持参した茶菓子だけを渡すと、その場で清空から粗茶が振る舞われ、しばしの間雑談に興じることとなった。

 話題の中心は、やはり清空が小夏を救った時に話である。
 何が起こったのか、まるで理解できなかった一同に、清空は『自分は按摩の施しも少し出来るので……』と誤魔化すような説明に終始した。

 娘を救ってもらった彦一としては、清空の正体がどのようなものか深く詮索するつもりは無い。
 ただ、清空に多少なりとも医術の心得があるというならば――と、彦一は清空に一つの提案を出してきたのである。

「それでは――歳平さん、ここで『診療所』を開く心づもりはありませんか?」

 これが、『空診療所』が設立されたきっかけとなった出来事であった。
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