月は紅、空は紫
 日が暮れて、太陽が西の空に沈もうとする頃に清空は起き出した。
 『あばら長屋』には、夕食の仕度をする、竃の煙が通りに流れる。

 清空は、いつもの日課である井戸での行水をする。
 九月ともなれば井戸の水はそれなりに冷たく、清空の内にまだ残っていた睡魔の欠片は、その引き締まるような水温に敢え無く追い出されて行く。

「先生ーっ! まだ始まらんかね?」

 清空が、手桶で四杯目の水を身体に浴びせた時に声を掛けてきたのは、『あばら長屋』から二町ほど離れた場所に住み、曲げ物屋を営んでいる佐太郎だ。
 先日より、曲げ物をやる時に左手首が痺れるということで空診療所に通っては灸の治療を受けて帰る。

 佐太郎だけではない、清空が暢気に行水をしている間にも――診療所の前には十二、三人の行列が出来てしまっている。
 皆、身体の何処かに思わしくない状態を抱えた者たちである。
 しかし、清空は待たせている者たちに気を遣うわけでもなく――のんびりと行水を楽しんでいるのだった。

 こうやって、いつもと変わらぬ清空の一日が始まる――。
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