三十路令嬢は年下係長に惑う
利き手が使えません
「ごちそーさまでしたっ! あー、美味しかった」

 左手ですっかり平らげた間藤は満足そうに言った。

「先日の朝ごはんも美味しかったし、料理、上手なんですね」

「母が働いていた頃は弟妹の食事を作っていたからかな……」

「あれ、お手伝いさんとかいないんですか?」

「父が、家に人を入れるのを嫌がる人でね……私も、家の事をするのは嫌いじゃなかったし」

 水都子の父といえば前社長であり、今は会長だ。現状、社長を次女に継がせるあたり、確かに身内で固めたい意向があるのもわかるような気が、間藤はしていた。

 水都子は、本来ならば、家の仕事をしている方が楽しい性質だ、だからこそ、見合いでの結婚に応じたし、妹のようにはなれない、とも思ったからだ。

 どうせ父のもってきた政略結婚とも言える縁談に応じるなら、どうしてもっと早くしなかったのだろう、とも思う。

 そもそも、就職するにあたって、父の縁故に頼るくらいなら、最初からポラリスリゾーツに入社していればよかったのだ。

 けれど、先に立たないからこその後悔であって、今更いくら後悔したところで時間が戻りはしないのだから。

「……そういえば、その、私の結婚式の話を、誰かにした?」

 坪井が何故自分の結婚式のあの日の事を知っているのか、少なくとも、親族でそのような外聞の悪い事を話す人間は居ないはず、であれば、あの日、あの場にいた間藤以外にいないのではないのか、と、水都子は思っていたのだった。

「俺が、そういう事を人にぺらぺら話すような人間に見えますか?」

 間藤は、坪井と水都子、鈴佳の間にあったやりとりは知らないはずだ。

「……ううん、思わない、思わない、けど」

「誰かに何か言われた?」

 間藤の視線はまっすぐで、射すくめられると水都子は動けなくなってしまう。

「そういうわけじゃ、……ない、けど」

 あわてて水都子が視線を反らすと、間藤は怪我をしていない方の左の手で、水都子の手に触れた。

「俺、嘘ついてないよ、だから、遊佐さんも嘘、つかないでほしいな」

 まっすぐに見られると、動く事ができない、水都子は、自分の鼓動が速度を増しているのを感じていた。

「……言われたの、坪井さんに」

「坪井か……、さぞかし上段で言ったんでしょうね」

「坪井さんは、間藤さんの事が好きみたいだしね」

「坪井が? 俺を? あいつが欲しいのはトロフィーですよ、トロフィーワイフとはよく聞くけど、男の場合は何て言うのかな、ハズバンド? ともかく、慎夜さん、真島くんと有望そうな若手に一通り当たって行って、明確に拒絶しなかったのが俺ってだけですよ?」
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