さざなみの声
2
名古屋の私の父は飲料メーカーで部長をしている。部長になったのは私が高校生の頃。ある日、会社から帰った父が母に
「きょう専務から部長にとの内示を受けたよ」
と言っているのを聞いた。
母は
「そう。部長さんになるのね。あなたすごいわ。でも身辺調査とかあるって聞くけど。まぁ大丈夫よね。まさか……。私に隠れて愛人囲ってたりしないわよね?」
「当たり前だろう。あの少ない小遣いで愛人なんか作れる訳ないだろう」
と家の両親は二人で大笑いしていた。
そうなのか。もしも私との事が会社に知れたら、部長にはなれなかったんだ。ということは啓祐が信用されていたから調査もなかったのか調査しても分からなかったのか、そのどっちかなんだ。良かった。迷惑掛けなくて。課長だろうと部長だろうと私には何の関係もないけれど。
風の中に少しずつ春を感じられるようになった三月のある日。啓祐は久しぶりに、お店に現れた。大き目の封筒を持って。
店長は
「まぁ、津島部長。おめでとうございます」
「ご無沙汰して申し訳なかったね。これからもよろしく頼むよ」
「偉くなられて、もう来てくださらないかと思いました」
「挨拶回りとか、いろいろと忙しくて済まなかったね。ところでデザインコンテストの大綱が決まったんだ。来月にはファッション誌にも載るから。今回は公募という形を執ることになった。年齢制限もないから学生でも主婦でも応募出来るんだよ」
「私も応募出来るんですか?」
「勿論だよ。我が社のデザイン室や他社でデザイナーとして働いているもの以外は全員資格ありだよ。テーマは自由。デザイン画を五パターン、五月末までに出して、その中から二十名が選ばれてデザイン画の一着を制作してもらう。九月にショー形式でプロの審査員と一般の審査員の投票で決まる。大賞と特別賞を取った二人には我が社で今後デザイナーとして働いて貰う。どうだろう? 頑張れそうか?」
「寧々ちゃん、すごいチャンスじゃないの」
店長は笑顔で言った。
「はい」
「これ書類だよ。頑張れ」
「ありがとうございます。部長」
「さて、この後、まだ寄らなければならない所があるんで失礼するよ。また出来るだけ顔を出すから」
そう言って啓祐は出て行った。
「寧々ちゃん、本当に頑張ってね。出来るだけ協力するから」
「ありがとうございます。店長」
「寧々ちゃんが本社でデザインした商品がここに並ぶのね」
「店長、まだ気が早いですよ。選ばれた訳じゃないんですから」
「そうだったわね。でもなんとなく、いけそうな気がするの」
「他にどんな方が応募されるかも分からないのに?」
店長と二人で笑った。店長の気持ちが温かくて嬉しかった。その日はその後、お客様もなく特にする事もなくて部長が持って来てくれた資料を見ながら店長とまるで姉妹のように、いろんな話で盛り上がった。そしてそのまま閉店時間に近くなった。
「寧々ちゃん、もういいわよ。帰って早くデザインでも考えなさい」
「でもまだ三十分ありますけど」
「任せなさい。ちゃんとバイト代は付けておくからね」
「いいんですか? そんな事して」
店長は笑顔だった。
少し風邪気味だったので、お言葉に甘えて帰ることにした。
「すみません。店長、じゃあ、お先に失礼します」
「はい。お疲れさま、気を付けてね」
着替えていたら啓祐からメールが来た。
『長いこと会えなくて、ごめん。さっきは寧々の顔を見られて嬉しかったよ。いつものホテルに部屋を取った。501号だ。来てくれるかな?』
そんなこと急に言われても……。
『ごめんなさい。少し風邪気味なので、きょうは無理みたいです。もうアパートに向かってます。今夜は会えません。』
『分かった。温かい物を食べて薬も飲んで早く休みなさい。またメールする。気を付けて帰りなさい。じゃあ』
見詰める携帯の文字が滲んでいく……。本当は今すぐにでも会いに行きたい。
スプリングコートを着て外に出た。
この歩道を左に行けば啓祐の待つホテル。右に行けば地下鉄の駅。握り締めた携帯をバッグに仕舞って私は右に歩き出した。
地下鉄のホームに立って、それでも私はまだ迷っていた。今なら今すぐに戻れば啓祐に会えるのに。乗るべき車両を二つ見送って、ようやく心を決めて乗り込んだ。