さざなみの声

6


 そんなある日、店長が本社に仕事の用事で出掛けて三時間ほど店を留守にしていた。

「寧々ちゃん、ごめんね。お昼まだでしょう? そうそう、本社の女性社員が話してるのを偶然聞いちゃったんだけど。津島部長、二人目のお子さんが生まれるらしいわよ」

「えっ? 二人目?」

「そう。上のお嬢さんが今二年生? だから随分離れちゃったのね。今度は男の子を期待してるらしいって噂してたわよ」

「そうですか。お昼、行って来ます」

「いってらっしゃい。ゆっくりでいいわよ」

 店長の声が、とても遠くから聞こえているように思えた。

 そんな、そんなことって。嘘だったんだ。奥さまとは男と女ではない。あれは嘘。あまりにショックで涙も出なかった。啓祐は私を裏切ってた。騙してた。いいえ違う。私は被害者じゃない加害者。啓祐が奥さまを裏切って私と付き合ってた。奥さまを裏切らせていたのは私なんだから……。

 私はただの不倫相手。代わりなんていくらでも居る。

 でも奥さまは、この世の中にたった一人。可愛いお嬢さんと生まれて来る新しい命。絵に描いたような幸せな家庭がそこにある。その温かな優しいドラマに必要ないのは私。居てはいけないのは私だけ。ここに居てはいけない……。

 お昼には、ちょっと遅い。お茶をするには少し早い中途半端な時間のカフェテラス。人も多くはない。注文したキャラメルマキアートを前にして、どうしたらいいのか考える事さえ出来ずにいた。

 お昼だった。でもお腹も空いていない。食欲なんてどこかへ消えた。ただ頭の中で「ここに居てはいけない」とどこからなのか分からない哀しい声が聞こえる。ここに居てはいけない。分かっているのは、それだけ。それだけ分かれば充分だとも言えるけれど……。

 その日バイトを終えてアパートに帰ってコンテストに送るデザイン画のファイルを見ていた。考えて考えて考えぬいた末に自信のあった五枚を抜いた。そして翌朝、バイトに行く途中でポストに投函した。締め切りまであと一日。後悔はなかった。これでいい。
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