さざなみの声
3
潮の香り、波の音、乾いた砂と濡れた砂の感触。スニーカーとソックスを脱いで、しばらく波と遊んだ。スカートを持ち上げて少し冷たい海水に足を浸して。
遮る物のない限りなく広がる梅雨時の空の色、海の色。今の私には、ちょうど良い。ライトグレーの空、落ち着いたブルーの海。泣き腫らした目にも優しい穏やかな気持ちになれる色なんだと思える。
ペンションには私の他に五十代くらいのご夫婦が泊まっていた。二階が宿泊する部屋で一階は開放的なリビングルーム。その奥にダイニングルーム。食事は宿泊客みんなで一緒に。ここのオーナーはフランス料理のシェフで肩の凝らない田舎料理が得意。ナイフとフォークの他に、お箸まで用意してくれていた。
美味しいワインに、カニと海老のクリームスープ、フォアグラのテリーヌ、ラム肉のロースト、パンまで手作り。そしてラストはコーヒーとカシスのソルベ。どれもとっても美味しくて心まで豊かになれた気がした。
夕食後、そのまま部屋に入るのも、なんだか勿体無くてリビングのソファーに一人で座っていた。
「こんばんは」と先程のご夫婦に声を掛けられた。
「こんばんは」私も応えた。
「もしご迷惑でなかったら、少しお話しませんか?」
優しい物腰の上品な奥さまに笑顔で話しかけられた。
「迷惑なんて……どうぞ」
お二人はテーブルを挟んだソファーに腰掛けた。
「お一人のようですね」
「はい。失恋旅行なんで……」
「まぁ、正直な方ね」と奥さま。
「こんな可愛らしい人を失恋させるなんて怪しからん男ですな」
とご主人。
お二人で顔を見合わせて、その眼差しが温かい。
「二人で来られたらいいなと思っていたんですけど」
「そう。お料理も素晴らしかったし、一緒に来られたら良かったですね」
その言葉に啓祐を思い出して私は俯いてしまった。
「あっ、ごめんなさい。その方を思い出させてしまったかしら」
「いえ、大丈夫です」
「きっと素敵な方だったのね」
「はい。とても……」
「恋してる時って、ただ真っ直ぐで周りが見えないことも多くて、自分では気付かない大切なものを見落としていたりするものですよ」
「大切なもの?」
「えぇ。本当は、あなたが目を向けるべき人だったり本来あなたの進むべき道だったり、いろいろなものをね」
「…………」
「あぁ、ごめんなさい。私ったら余計なことを……」
「あっ、いいえ。ありがとうございます。そうかもしれませんね」
「素直で素敵なお嬢さんね。あなたに相応しいもっと素晴らしい人が、きっと現れますよ。もう傍に居るかもしれませんね。気付かないだけで」
「そろそろ部屋に戻ろうか? 疲れただろう」とご主人。
「お邪魔して、ごめんなさいね」
お二人は優しい笑顔で席を立った。年齢を重ねた時、あのご夫婦のようになれたら素敵だと心から思った。お二人で並んで階段を上がっていく姿をそっと見送った。