天使の瑕
第四話 優しさ
イリューシャはダミアに黙っていることがある。
ひな鳥が教えられることなく空を飛ぶように、女精も自分の本性を知る。
帰綱が切れたとき、イリューシャも自らの本性を理解した。女精は本来、生き物ではないと。
有翼人種は帰綱をただの精神的な支えだと思っているが、女精はそれを失うと、体の均衡も失うことも。
「もう食べないのか?」
向き合って食事を取っていたダミアが、心配そうに問う。
イリューシャははっとして、慌てて豆のスープを飲もうとする。
けれど喉を通った後、石が落ちるような違和感があった。
結晶化。イリューシャの体は生まれる前に戻ろうとしている。
既に胃が凍り付き始めている。じきに喉も動かなくなるだろう。
「具合が悪いのではないか?」
席を立とうとしたダミアに、イリューシャは笑顔を向ける。
「新しいダンスのことを考えていました。どうしても今踊りたくて」
ダミアが微笑み返す。イリューシャは幼い頃から、何をするより踊るのが好きだった。
「いいよ。見せてごらん」
「はい!」
ダンスはイリューシャの元気の証で、喜びの源だ。そしてそれをみつめるのがダミアの楽しみでもあった。
ダミアが促すと、イリューシャは席を立って軽やかに踊り始める。
イリューシャが舞うと、食卓に飾られた花のつぼみはほころび、夜更けの空気は甘く香り始める。
(お願い。もう少しだけ動いていて)
目を細めて見守るダミアをみつめながら、イリューシャは鈍くなっている心臓の音に話しかける。
(私は石でしかないけど、にいさまは私を生き物のように扱ってくれたもの)
最終的に、体全体が石になる。だが幸いなことに、結晶化は体の中から始まっている。まだダミアには見えないはずだった。
「にいさまも」
イリューシャが手を引いて、ダミアもダンスに加える。すべてを教えてくれたダミアに、唯一イリューシャが教えることができたのがダンスだった。
肌に触れ、引き寄せてそのぬくもりを感じる。ダミアが教えた兄妹のふれあいはそうだ。
軽やかなダンスのあとは、背に腕を回して頬に頬を寄せる。
「上手になった」
イリューシャがキスを贈ると、ダミアはくすくすと笑って、イリューシャの髪を撫でる。それでイリューシャを抱き上げると、首筋に顔を埋めた。
体の中心がじわりと熱くなるのを感じて、イリューシャはまだ大丈夫と安堵する。
「リィ。私の宝物」
銀の瞳の奥にちらつく獣性。それを見て、結晶化しているはずの体内が痛む。
ロジオンに身を奪われたときに見た、ダミアの怒り。ずっと優しかった兄が初めて見せたむきだしの獣性を、イリューシャは覚えている。
怖かった。けれどその衝撃で、帰綱に巻き取られずに済んだ。
ダミアも、自分を傷付けたロジオンにさえ、憧れた。らせんの中に落ちていくように生命を終わらせる精霊と違って、なんて力強い生き物だろうと。
自らの命が終息していくのは、本来の形に戻るだけ。だけどその痛みのような憧れが、まだ心臓を動かす。
「……大丈夫だ」
ふいにダミアは獣性を綺麗に消し去って、イリューシャに諭す。
「体調が悪いのだろう? 隠してもわかる。さ、温かくして、ゆっくりお休み」
イリューシャの身を奪うより、過剰に保護する方を選ぶ。獣性を見せず、怯えさせず。
それが兄の優しさだと知っているから余計に、イリューシャは切なくなる。
イリューシャを抱き上げて寝室に運ぶ。
「にいさまは、ずっと私のにいさま?」
イリューシャはダミアを見上げて問いかける。
この体がすべて石になる前に、何かあげられるものがあるのなら。
ダミアは優しくうなずく。
「ああ。そうだ」
いつものようにうなずく兄に、イリューシャはそれ以上言葉を探すことができなかった。
ひな鳥が教えられることなく空を飛ぶように、女精も自分の本性を知る。
帰綱が切れたとき、イリューシャも自らの本性を理解した。女精は本来、生き物ではないと。
有翼人種は帰綱をただの精神的な支えだと思っているが、女精はそれを失うと、体の均衡も失うことも。
「もう食べないのか?」
向き合って食事を取っていたダミアが、心配そうに問う。
イリューシャははっとして、慌てて豆のスープを飲もうとする。
けれど喉を通った後、石が落ちるような違和感があった。
結晶化。イリューシャの体は生まれる前に戻ろうとしている。
既に胃が凍り付き始めている。じきに喉も動かなくなるだろう。
「具合が悪いのではないか?」
席を立とうとしたダミアに、イリューシャは笑顔を向ける。
「新しいダンスのことを考えていました。どうしても今踊りたくて」
ダミアが微笑み返す。イリューシャは幼い頃から、何をするより踊るのが好きだった。
「いいよ。見せてごらん」
「はい!」
ダンスはイリューシャの元気の証で、喜びの源だ。そしてそれをみつめるのがダミアの楽しみでもあった。
ダミアが促すと、イリューシャは席を立って軽やかに踊り始める。
イリューシャが舞うと、食卓に飾られた花のつぼみはほころび、夜更けの空気は甘く香り始める。
(お願い。もう少しだけ動いていて)
目を細めて見守るダミアをみつめながら、イリューシャは鈍くなっている心臓の音に話しかける。
(私は石でしかないけど、にいさまは私を生き物のように扱ってくれたもの)
最終的に、体全体が石になる。だが幸いなことに、結晶化は体の中から始まっている。まだダミアには見えないはずだった。
「にいさまも」
イリューシャが手を引いて、ダミアもダンスに加える。すべてを教えてくれたダミアに、唯一イリューシャが教えることができたのがダンスだった。
肌に触れ、引き寄せてそのぬくもりを感じる。ダミアが教えた兄妹のふれあいはそうだ。
軽やかなダンスのあとは、背に腕を回して頬に頬を寄せる。
「上手になった」
イリューシャがキスを贈ると、ダミアはくすくすと笑って、イリューシャの髪を撫でる。それでイリューシャを抱き上げると、首筋に顔を埋めた。
体の中心がじわりと熱くなるのを感じて、イリューシャはまだ大丈夫と安堵する。
「リィ。私の宝物」
銀の瞳の奥にちらつく獣性。それを見て、結晶化しているはずの体内が痛む。
ロジオンに身を奪われたときに見た、ダミアの怒り。ずっと優しかった兄が初めて見せたむきだしの獣性を、イリューシャは覚えている。
怖かった。けれどその衝撃で、帰綱に巻き取られずに済んだ。
ダミアも、自分を傷付けたロジオンにさえ、憧れた。らせんの中に落ちていくように生命を終わらせる精霊と違って、なんて力強い生き物だろうと。
自らの命が終息していくのは、本来の形に戻るだけ。だけどその痛みのような憧れが、まだ心臓を動かす。
「……大丈夫だ」
ふいにダミアは獣性を綺麗に消し去って、イリューシャに諭す。
「体調が悪いのだろう? 隠してもわかる。さ、温かくして、ゆっくりお休み」
イリューシャの身を奪うより、過剰に保護する方を選ぶ。獣性を見せず、怯えさせず。
それが兄の優しさだと知っているから余計に、イリューシャは切なくなる。
イリューシャを抱き上げて寝室に運ぶ。
「にいさまは、ずっと私のにいさま?」
イリューシャはダミアを見上げて問いかける。
この体がすべて石になる前に、何かあげられるものがあるのなら。
ダミアは優しくうなずく。
「ああ。そうだ」
いつものようにうなずく兄に、イリューシャはそれ以上言葉を探すことができなかった。