天使の瑕
最終話 片翼
にいさまを傷つけるくらいなら命を失って構わない。抵抗したイリューシャに、ダミアはその夜、寝物語を聞かせた。
「あるところに、有翼人種の兄妹がいた。仲のいい兄妹だった」
ダミアはイリューシャの髪を梳きながら話す。
「有翼人種は姉妹を鎖でつないで居館に閉じ込めるのが普通だが、彼はそういうことはしなかった。むしろ病弱な妹にいろいろな景色を見せてやりたいと、進んで外に連れて行った。妹もそんな兄を慕って、二人は理想的な番いに見えた」
窓の外の月を見やりながら、ダミアは言った。
「あるとき、妹が兄の子を孕んだ。有翼人種の女性が兄弟の子を孕むのはよくあることだが、獣性の弱い子が生まれるのは避けられない。その兄は特殊な生まれで獣性が強く、反対に妹はひどく獣性が弱かった。妹は強い獣性を残せないことを気に病んで、精霊界に隠れてしまった」
「それで……?」
イリューシャが心配そうに訊ねると、ダミアは続ける。
「妹はまもなく精霊界で命を落としたが、その娘は精霊の中で育って父親の元に戻ってきた。娘は母以上に獣性が弱く、翼もなかった。けれど父親を手伝いたいと、精霊界の様々なことを語って聞かせた。その中に、私たちがよく口にする「合意」の原型があった」
「にいさま、私」
イリューシャは首を横に振る。
「にいさまから奪うなんてできない。それが合意になるといわれても信じられない。ロジオンは、失敗して二人とも命を落とした同属がたくさんいたって」
ダミアはふいに身を起こして、イリューシャに口づける。
体温で色づいたイリューシャの唇。それに自らの指を触れさせて、ダミアはささやく。
「リィはにいさまが好きかい?」
「はい」
こくんとうなずいたイリューシャをのぞき込んで、ダミアは続けた。
「にいさまもリィが好きだよ。それが番いの合意で、どんな暴力的な有翼人種でも好き合う者同士しか番わない」
ダミアはイリューシャの頬をなでる。
「親子愛でも、兄妹愛でも、なんと言われても……私はリィとしか番いたくはない。だからこれが一番の方法なんだ」
ダミアは胸にイリューシャの頭を抱いて、目を閉じた。
それから二日の後、イリューシャは有翼人種の王宮の一角にいた。
鮮やかな黄金の天井絵の下、帯剣した有翼人種の騎士の像が赤い絨毯の道の脇に並ぶ。
イリューシャはロジオンに手を引かれて、広間に入った。長い絨毯の道を歩きながら、ロジオンが言う。
「ここで手を引くのは家族の役目だが、その家族と好き合っていたら、騎士の像が妖獣に変わって襲い掛かって来るという」
イリューシャがびくりとしてロジオンを振り向くと、彼は苦笑した。
「冗談くらい言わせてくれ。お前が俺を好きと言ってくれたなら、この道の先で待つのは俺だったはずなんだから」
「……痛い思いをしたのに、好きなんて言えない」
イリューシャが複雑な顔をすると、ロジオンは空いた方の手で頬をかいた。
左右の騎士の像は、厳格なたたずまいでイリューシャを見下ろしていた。動くのは冗談だとしても、迷いを抱いたのなら足を止めてしまうほど。
今もまだ、ダミアを傷つけるのは嫌だった。
けれどダミアとロジオンのようになりたいと願う気持ちは、イリューシャの中で結晶化してしまっていた。ずっと無性たちのように風や水に溶けられたらと思っていたのに、二人のような家族になれたらもっといいと願ってしまった。
道の先にダミアが待っていた。有翼人種の正装である、黒のサーコート姿。その背中に輝く銀の翼と相まって、イリューシャには自分と同じ生き物だとは思えなかった。
「リィ」
実際、同じ生き物ではない。ダミアに優しく呼びかけられても、イリューシャは腰の短剣に手を伸ばせなかった。
ダミアは腕を広げてイリューシャを抱きしめる。目を見開いたイリューシャに、ダミアは言った。
「私はずっとリィの家族だよ」
イリューシャの背を撫でて、ダミアは告げる。
「愛している」
じわりとイリューシャの目が滲んだ。
たぶんずっと、不安だった。ダミアに家族でないと言われる日が来るのを、恐れていた。
「愛しています、にいさま」
けれど今なら信じられる気がした。ダミアの言う通り、親子愛でも兄妹愛でも構わない。
長い間側にいた人に、何度となくあふれてくる思い。それがイリューシャにとっての愛だと。
ダミアを抱きしめ返す。そのとき、不思議なことが起こった。
「……え?」
ダミアの翼が片方、消えた。万能薬でイリューシャが切り落とすはずだった翼が、唐突になくなった。
驚いて体を離すと、ダミアも不思議そうに背中を見やる。翼を落とすには激痛を伴うと聞いていたのに、ダミアは何の痛みも感じていないようだった。
「イリューシャ、背中に」
ロジオンも呆気に取られて言う。イリューシャの背中に、ダミアの背にあった銀の翼が片方生えていた。
イリューシャは体の中にわだかまっていた結晶が、溶けてなくなっているのに気づいた。まるで宙を歩けそうなほど、体が軽かった。
ダミアはイリューシャの翼に触れて、それが確かに自分のものだったことを確かめると、ふと微笑んだ。
「いにしえの合意ができたらしい」
寝物語の中で、イリューシャも聞いていた。有翼人種の初代国王とその娘の結んだ、最初の合意の形。
空を飛ぶことができなくとも、長い命は持てなくても、二人で穏やかに暮らそうと約束した。
ダミアとイリューシャは笑い合って、そっと互いの頬にキスをする。
イリューシャから青い蝶が生まれいでて、一つだけ空いた窓に飛んでいく。
そこに座っていた片翼の男性も、腕に抱いた片翼の少女にキスをして、青い蝶と共に消えていった。
「あるところに、有翼人種の兄妹がいた。仲のいい兄妹だった」
ダミアはイリューシャの髪を梳きながら話す。
「有翼人種は姉妹を鎖でつないで居館に閉じ込めるのが普通だが、彼はそういうことはしなかった。むしろ病弱な妹にいろいろな景色を見せてやりたいと、進んで外に連れて行った。妹もそんな兄を慕って、二人は理想的な番いに見えた」
窓の外の月を見やりながら、ダミアは言った。
「あるとき、妹が兄の子を孕んだ。有翼人種の女性が兄弟の子を孕むのはよくあることだが、獣性の弱い子が生まれるのは避けられない。その兄は特殊な生まれで獣性が強く、反対に妹はひどく獣性が弱かった。妹は強い獣性を残せないことを気に病んで、精霊界に隠れてしまった」
「それで……?」
イリューシャが心配そうに訊ねると、ダミアは続ける。
「妹はまもなく精霊界で命を落としたが、その娘は精霊の中で育って父親の元に戻ってきた。娘は母以上に獣性が弱く、翼もなかった。けれど父親を手伝いたいと、精霊界の様々なことを語って聞かせた。その中に、私たちがよく口にする「合意」の原型があった」
「にいさま、私」
イリューシャは首を横に振る。
「にいさまから奪うなんてできない。それが合意になるといわれても信じられない。ロジオンは、失敗して二人とも命を落とした同属がたくさんいたって」
ダミアはふいに身を起こして、イリューシャに口づける。
体温で色づいたイリューシャの唇。それに自らの指を触れさせて、ダミアはささやく。
「リィはにいさまが好きかい?」
「はい」
こくんとうなずいたイリューシャをのぞき込んで、ダミアは続けた。
「にいさまもリィが好きだよ。それが番いの合意で、どんな暴力的な有翼人種でも好き合う者同士しか番わない」
ダミアはイリューシャの頬をなでる。
「親子愛でも、兄妹愛でも、なんと言われても……私はリィとしか番いたくはない。だからこれが一番の方法なんだ」
ダミアは胸にイリューシャの頭を抱いて、目を閉じた。
それから二日の後、イリューシャは有翼人種の王宮の一角にいた。
鮮やかな黄金の天井絵の下、帯剣した有翼人種の騎士の像が赤い絨毯の道の脇に並ぶ。
イリューシャはロジオンに手を引かれて、広間に入った。長い絨毯の道を歩きながら、ロジオンが言う。
「ここで手を引くのは家族の役目だが、その家族と好き合っていたら、騎士の像が妖獣に変わって襲い掛かって来るという」
イリューシャがびくりとしてロジオンを振り向くと、彼は苦笑した。
「冗談くらい言わせてくれ。お前が俺を好きと言ってくれたなら、この道の先で待つのは俺だったはずなんだから」
「……痛い思いをしたのに、好きなんて言えない」
イリューシャが複雑な顔をすると、ロジオンは空いた方の手で頬をかいた。
左右の騎士の像は、厳格なたたずまいでイリューシャを見下ろしていた。動くのは冗談だとしても、迷いを抱いたのなら足を止めてしまうほど。
今もまだ、ダミアを傷つけるのは嫌だった。
けれどダミアとロジオンのようになりたいと願う気持ちは、イリューシャの中で結晶化してしまっていた。ずっと無性たちのように風や水に溶けられたらと思っていたのに、二人のような家族になれたらもっといいと願ってしまった。
道の先にダミアが待っていた。有翼人種の正装である、黒のサーコート姿。その背中に輝く銀の翼と相まって、イリューシャには自分と同じ生き物だとは思えなかった。
「リィ」
実際、同じ生き物ではない。ダミアに優しく呼びかけられても、イリューシャは腰の短剣に手を伸ばせなかった。
ダミアは腕を広げてイリューシャを抱きしめる。目を見開いたイリューシャに、ダミアは言った。
「私はずっとリィの家族だよ」
イリューシャの背を撫でて、ダミアは告げる。
「愛している」
じわりとイリューシャの目が滲んだ。
たぶんずっと、不安だった。ダミアに家族でないと言われる日が来るのを、恐れていた。
「愛しています、にいさま」
けれど今なら信じられる気がした。ダミアの言う通り、親子愛でも兄妹愛でも構わない。
長い間側にいた人に、何度となくあふれてくる思い。それがイリューシャにとっての愛だと。
ダミアを抱きしめ返す。そのとき、不思議なことが起こった。
「……え?」
ダミアの翼が片方、消えた。万能薬でイリューシャが切り落とすはずだった翼が、唐突になくなった。
驚いて体を離すと、ダミアも不思議そうに背中を見やる。翼を落とすには激痛を伴うと聞いていたのに、ダミアは何の痛みも感じていないようだった。
「イリューシャ、背中に」
ロジオンも呆気に取られて言う。イリューシャの背中に、ダミアの背にあった銀の翼が片方生えていた。
イリューシャは体の中にわだかまっていた結晶が、溶けてなくなっているのに気づいた。まるで宙を歩けそうなほど、体が軽かった。
ダミアはイリューシャの翼に触れて、それが確かに自分のものだったことを確かめると、ふと微笑んだ。
「いにしえの合意ができたらしい」
寝物語の中で、イリューシャも聞いていた。有翼人種の初代国王とその娘の結んだ、最初の合意の形。
空を飛ぶことができなくとも、長い命は持てなくても、二人で穏やかに暮らそうと約束した。
ダミアとイリューシャは笑い合って、そっと互いの頬にキスをする。
イリューシャから青い蝶が生まれいでて、一つだけ空いた窓に飛んでいく。
そこに座っていた片翼の男性も、腕に抱いた片翼の少女にキスをして、青い蝶と共に消えていった。