檸檬の黄昏
食糧、日用品、生活雑貨もろもろ。
買い物を終え銭湯で風呂を済ませ自宅へと車を走らせていた茄緒であったが……。
煙が見えるのである。
野焼きのような。
近所で焼き芋でも焼いてるのかと呑気に運転していた茄緒であったが、茄緒の自宅周辺にはあの三軒しかないのだ。
他の家までは五百メートル以上は離れている。
茄緒の胸はざわつき心臓が音をたてる。
なぜ、どうして。
いや、そもそも火は使っていない。
自分の家ではないはず。
半ば自分に言い聞かせながら自宅へ到着した。
が、近づいた直前にはもう状況を理解してしまった。
ドラム缶から火柱が上がっており勢いよく枯れた落ち葉を燃やしている。
さらに燃えた落ち葉が舞い上がり火の粉となって周囲に置かれたゴミ袋に降り注ぎ、引火しかけていたのだ。
悲鳴をあげ車から飛び出した茄緒たが、どうしようもない。
しかもバケツやホース、消火に繋げる物もない。
足がすくみ茄緒が動けずにいたそのときだ。
「何をしている、早く消せ!」
男の声がして茄緒がそちらに顔を向けると壁の上に男の頭が見えた。
ボサボサの髪に無精髭の男である。
茄緒の状況を理解したのか男は舌打ちすると塀から離れ、次に現れた時は手には消火器を持っていた。
茄緒の自宅の庭に回り込むと男はドラム缶とゴミ袋に向けて消火し始める。
消火器の力でみるみる火は威力を弱め、やがて細い煙をあげるのみとなった。
「危なかったな。家どころか山火事になるところだった」
男は息を吐くと、立ち尽くしている茄緒に目を向けた。
呆然と立ち尽くしている茄緒の前に立つ。
背が高い。
一七八センチある茄緒よりも十センチは高い。
うねりのある癖のある黒髪、それに無精髭。
紺色のスウェット上下を身につけている。
「あんたは大丈夫か?」
怒鳴られると身構えた茄緒だったが、意外な言葉に我に帰る。
「ごめんなさい、火を消して下さってありがとうございました」
あなたこそお怪我はありませんでしたか、と茄緒は頭を下げた。
手や肩が震えているように見える。
実際に茄緒は震えていた。
男は茄緒の様子を見つめながら、おれは大丈夫だ、と言葉を返す。
「大家さんに聞いた。引っ越してきたのは、あんたか」
はい、と茄緒は頷く。
頭に言葉が色々と浮かぶが、口が重く上手く動かない。
……………
茄緒の脳裏に呪詛のように言葉が流れた。
目の前の男のシルエットがグニャリと歪み黒い影となり、口元まで咲けた化け物になって、茄緒を嘲笑っている。
幻だとわかっている。
自分自身が生み出してしまう幻影だと。
茄緒にはどこか欠けている記憶がある。
しかし防衛本能なのか、それを産み出すきっかけが何であったのか思い出せないのだ。
茄緒は振り払うように頭を振る。
「ごめんなさい、明日改めてお伺いします」
茄緒は精一杯言ったつもりだったが、果たして伝わったかどうか。
男は茄緒を見つめていた。
「気をつけろよ」
とだけ言うと隣の家へと戻って行く。
心臓はまだ痛いくらいの鼓動を打っている。
茄緒は目の辺りを抑え、ため息をついた。
過去の亡霊が重く茄緒にのしかかる。
負けるものか
茄緒は両手で自分の頬を挟むように軽く叩いた。
大きく息をつく。
明日、隣の人に謝りに行こう。
先ほど外出した時に実は挨拶のための手土産を買ってきていたのに、最悪な第一印象になってしまった。
空を見るとだいぶ陽が落ち辺りは薄暗くなり始め、落ち葉は明日また片付けることにした。
茄緒は新居に戻ると空は一番星が輝いていた。