檸檬の黄昏
耕平の会社は土日、祝日は休日である。
その土曜日。

毎年この時期になると耕平は都内の、ある邸宅を訪れていた。

服装は黒いスラックス、ワイシャツ姿で髪もそれなりに整え、髭も剃ってある。


閑静な住宅街の一角にある3階建て住宅だ。
一階の和式居間に通され、仏壇の前で耕平は正座をする。

立てかけられた写真には、ひとりの女性が微笑んでいる。
二十代前半くらいだろうか。
茶色の髪は長くストレートで、顔立ちの整った美人である。
耕平は線香に火を付けると手を合わせた。

リビングに通された耕平は、木製のテーブルを挟んだソファに腰をおろす。

年配の白髪混じりの女性が氷の入ったアイスコーヒーを耕平の前に置いた。


「ありがとうございます、お義母さん」


いいのよ、と女性は微笑した。
シワもあるが、年齢相応の素敵な女性だ。


ドアが開き、同じく白髪混じりの年配の男性が部屋に入って来て、耕平の向かい側に腰を下ろした。
嫌みではなく、迎えてくれる笑顔だ。

名前を西ヶ崎 喜一郎(にしがさき きいちろう)といい、75歳になる。


「耕平くん。いつもありがとう」
「いえ。あまり来れずに申し訳ありません」


耕平が返すと、男は笑った。


「あいかわらず真面目だな」


この年配の男は耕平の妻の父親だ。
元妻、という表現の方が正しい。
男は一息つくと口を開いた。


「沙織がいなくなって、もう十年になる。あっという間の十年だった」


男は耕平を見た。


「他に好きな女性はできたか?」


耕平は義理の父親を見た。
以前より背中が丸く小さくなったように見える。

その言葉に耕平が答える前に男は再び口を開く。
自らの質問だったが、答えは訊きたくなかったのかもしれない。


「実はな、この邸を引き払おうと思ってるんだ。年老いた私たちには広すぎる」


喜一郎は室内を見渡した。

この住宅は結婚の際に元あった沙織の実家を耕平と喜一郎が共同で購入し、建て直したものだ。

喜一郎家族と耕平夫妻、二世帯で住むはずだった。

しかしそれが叶う前に娘である沙織は他界し、耕平もここで暮らすことはなかった。



「君からの謝罪と支援は十分過ぎるほど受けた。あの頃の私たちは沙織を失った悲しみと怒り、喪失感を君にぶつけていた、愚かな行為だった」



喜一郎は続ける。


「私たちはもう先も長くない。沙織も君が故人に縛られているのは、望まないと思う。これから先は、新しい人生を歩んで欲しい」


喜一郎の隣に妻である美代子(みよこ)が座った。
うなだれる夫を慰めているようだった。


「おれは……」
「そんなのだめよ、お姉ちゃんが赦すはずないじゃない!」


部屋の扉が開き若い女性が飛び込んで来た。

ショートボブの二十代半ば位の女性である。
猫のような丸い目、尖った顎の輪郭。細い身体にジーンズの短パンと、レース付きの女性らしいカットソーを身につけていた。
身長は一六十センチ弱、というところか。
美代子が立ち上がる。


「麗香!」
「お姉ちゃんは耕平さんが、すごく好きだった。いつも耕平兄さんを想ってた。それなのに」
「麗香、やめないか」


喜一郎も言葉を荒げる。
しかし麗香(れいか)は止めない。
耕平の隣に座ると耕平の瞳を見る。


「兄さんは、お姉ちゃんのだよ。お姉ちゃんも耕平さんの奥さんでしょう?」


耕平は微笑した。


「わかってる、麗香」


取り乱している妻の妹を諭すように、耕平は口を開いた。


「おれは誰とも添い遂げようと思っていない。今は仕事が楽しいからな」
「本当?」


麗香の丸い瞳がじっと耕平を見つめ耕平は、ああ、と答える。
耕平のやり取りを見ていた喜一郎が話題を変えた。


「どうだね、会社は」
「ようやく軌道に乗ったように思います。まだまだですが」


耕平の言葉に喜一郎は笑顔で顎を撫でた。


「そうか。やはり君はやり手だな。大したものだ。昔から優秀だったからな」


耕平を讃える。


それからいくつか雑談を交わし耕平は西ヶ崎邸を後にする。
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