檸檬の黄昏
次の日。
まさか耕平と敬司が自分が原因で険悪になっているとは全く思っていないし、知らない茄緒は弟の涼と共に両親の墓参りに訪れていた。
そもそも茄緒がああいう態度をとったのは、麗香に心配をかけたくなかったからだ。
耕平の天然ボケのせいで麗香に余計な心配をかけさせた事には申し訳なく、ほんの少しの怒りは沸いたが、深くは考えないようにした。
自分はただのアルバイトだ。
しかも三十手前の。
そんな女に警戒も何もないとは思うのだが。
第一に耕平は亡くなった妻を大切にしているのだ。
耕平の寝室の写真と指輪を思い出し茄緒は胸の奥が少し痛むのを感じる。
それなのにあの時、自分に触れようとしたような……。
耕平の手が自分の頬に触れようとした。
茄緒は軽く頭を振り、それ以上は考えないことにした。
涼と二人で墓を掃除して花を活け、線香に火を灯すと合掌する。
「昔は何もかもなかったのに、この辺も変わったね」
墓参りを終え帰り道である。
涼と二人で道路沿いの歩道を歩いていた茄緒が云った。
茄緒は青いワンピース、涼はティーシャツ、短パン姿だ。
「そうだな。親と住んでいた頃は、この辺は全部畑だった。今は、アパートや家が建って住宅街になってるもんな」
涼も周辺を見回す。
「家も、もうないしな」
ぽつり、と涼が云った。
「そうだね」
茄緒は短く返す。
そうとしか、返す言葉がなかった。
両親が亡くなったあと高校生に進学したばかりの茄緒と、まだ小学生の涼は親戚をたらい回しに育てられた。
皆、自分たちの家族を養う事で精一杯なのだから、家に置いてもらえるだけありがたかった。
その後、両親と育った庭付きの一軒家は売却されたが取り壊され、今は商業施設が建っている。
昔の面影といえば、街路樹が変わらないことだけだった。
「もう昔には戻れないんだな」
涼が自宅のあった場所を眺めている。
立ち止まって見つめていると、涼は幼かった両親と暮らした幼かった頃を思い出す。
幼い茄緒と涼は、夏の今頃の季節になると虫かごと虫取り網を持って、よく昆虫を捕まえに行ったものだ。
だが虫が苦手な涼は一緒に行くものの触れず、姉任せだった。
小さな川があるので、そこへも釣りに行ったり。
田んぼでメダカやザリガニを捕ったり。
そこでも怖がる涼に、いつも茄緒は笑いかける。
お姉ちゃんがやってあげるから、大丈夫よ
ほら、こんなに大きな魚が釣れたよ、涼にあげる
茄緒はバケツや虫かごを持って家に帰り、涼が捕ったよ、涼が頑張ったよと、両親に嬉しそうに報告していた。
両親が死んだあと、茄緒は泣いていなかった。
弟に寄り添い、
涼、大丈夫だよ
お姉ちゃんがいるから
と、気丈に振る舞っていた。
だが涼は知っていた。
誰もいない両親の写真の前で声を殺して泣いていたこと。
悪い話しが自分に入らないように盾になっていたこと。
いつも自分を守ってくれていた。
姉が結婚すると聞いた時、涼は嬉しさもあった事は確かだ。
しかし禿をどことなく信じきれていなかった事があり、完全には喜べなかった。
その悪い予感は的中してしまい、あの結婚で幸せになるはすだった茄緒は滅茶苦茶にされ、人生を大きく狂わされた。
茄緒が何をしたっていうんだ。
涼は茄緒を見る。
姉はもう恋は考えていないのかもしれない。
七年も付き合って結婚して本性を現した男に裏切られたのだから、人間不振になるのも無理はない。
だが仮に茄緒に似合いそうな男といえば。
ふと涼は思い出した。
「茄緒のボスいたろ、隣の家に。あの人、格好いいよな」
女からは当たり前だけど、男から見てもモテんじゃね、と涼が云った。
藪から棒の話しに茄緒は弟を見上げる。
「おれも、ああいう渋い男になりたい」
目を輝かせて握り拳を作り鼻息を荒くしている。
今はチャラ男だけど本当はああいう男がいい、と涼は云った。
茄緒は形の良い繊細な人差し指を頬に当て、考える仕草をする。
「そうねえ。確かに耕平さんは、ちゃんとすれば、なんとか良く見えるけど」
いつもはちゃんとしてないからね、と後半は心の中で呟いた。
「最初に会った時、髭だらけだったのよ、耕平さん」
「へえ。ますます渋いじゃん」
「渋いというか……なんというか、熊さん?」
「ははっ、なんだよ、それ」
夏の日射しが二人の姉お友達を照らすが木陰はそれを遮り、冷やりとした空間を作り出している。
楽しそうに上司について話す姉に涼は少し安心した。
禿だけで終わりなんて、あまりにも姉が理不尽だ。
自分を後回しにしてしまう茄緒には、包容力のある歳上の男が合うと涼は感じていたのである。
姉と弟は身体の大きさも年齢も違うが一緒に暮らしていたあの頃と、二人並んで歩きながら話すシルエットは同じであった。