檸檬の黄昏
茄緒はサンドイッチを飲み込み頭を下げる。
「大家さん、おはようございます」
「まあ大家さんだなんて恥ずかしい。小夜(さよ)でいいわよ」
ふふっ、と笑い茄緒の隣に腰かける。
「走って来たの?」
「はい。でも思ったより坂道がきつくて……。車で運転してきた時とは印象が違って、疲れました。運動不足を感じます」
茄緒は笑った。
「いいえ、すごいわ。大したものよ。素敵な趣味ね」
小夜は感心すると、暇なだけですよ、と茄緒は照れ笑いを返す。
「大家さ……いえ、小夜さんはここでも働いているんですか?」
小夜の自宅は自宅一階を店舗にしていて、そこで衣料品や生活雑貨を取り扱う店を開いている。
茄緒が借家相談に行った場所もそこだったので知っていた。
そこに色褪せた自分の販売催促ポスターがひっそりと貼られていることも。
思い出すと茄緒は何とも居たたまれない気持ちになったが、表面には出さなかった。
「ええ、たまにね。ここ、今まで働いていた女の子が他県へ嫁いでしまったので、人手不足なの。だからお手伝いに来てるのよ」
小夜は続ける。
「茄緒ちゃんはこちらではお仕事は決まっているの?」
「いえ。恥ずかしながら、まだ」
「まあ、そうだったの」
小夜は少し考え、思い出したように手をたたいた。
「コウヘイ君の会社はどうかしら。事務員さんが欲しいとかで、募集してるみたいよ。私の息子も一緒に働いているんだけど、コウヘイくん、ちょっと気難しい子でねぇ。人付き合いも少ないみたいだし。でも悪い人ではないから考えてみて」、
と小夜は微笑んだ。
「話したようにここでも働けるから心配しないで。コウヘイ君によろしくね。またね、若い子は大歓迎よ」
手を振り職場へと戻っていった。
誘いは非常に有難い。
今回の引っ越しで貯金はほとんど使ってしまったし、その先はあまり考えていなかったからだ。
それにしても若い子か。
茄緒は心の中で苦く笑う。
先月で二十代最後の誕生日を迎えた茄緒は、社会人としてもう若くはないのかもしれない。
同級生も夫がいて子供がいて、仕事もキャリアを積み戦力となり後輩も育てられる年齢だ。
現役だった頃は武器だった高身長も年を重ねた今では何の役にも立たない。
むしろ女としては足枷のような気がするのだ。
(それにしてもコウヘイ君とは?))
自分に接点があるのは隣人であり恩人である髭男だけで、なおかつ小夜の知り合いとなれば、あの男なのだろう。
帰ったら挨拶に行くことを決め茄緒はベンチを立ち上がると、元来た道を再び走り始めた。