檸檬の黄昏
道の駅でのバイト中。
客も少ないレジで茄緒はため息をついた。
社員を断り引っ越すと云っただけでなぜ耕平は、あんなに怒ったのか。
自分にだって事情はある。
耕平の思い通りになんて、なるわけがない。
昨夜から切り替えようと思っても思考が変われない。
また、ため息をつく。
怒ったからと云って耕平は怖くなんかはない。
彼は禿とは違う。
茄緒は気づいた。
自分は人を信じきれていないのだ。
確かに二年間は治療に専念したが、後の二年間は働かないといけないという思いと金を貯めなければという使命感。
悪くはなかったが自分のやりたい職業だったのかと云われると、違う。
モデルは嫌いじゃなかったが、やりたかった職業かと自分に問うと、これもノーだ。
彼は向き合ってくれたからあんなに怒ったのかもしれない。
事務所の仕事はやりがいがあるし面白い。
安い給料で使われていると云われればそれまでだが、アルバイトとはいえ対偶は良い。
それなのに自分は……。
「あーあ……」
今度は声を出して盛大にため息をついてしまう。
そこへ、レジかごを持った年配の男の客がやってきた。
つまみや缶ビールなどだったが……。
「朝からお酒ですか~?」
茄緒が余計な事だと思いつつ訊いてしまった。
すると、その客は嫌な顔はせずに教えてくれた。
今から海釣りに行くのだという。
同級生と合流して釣りをしながら酒盛りをするそうだ。
夜は危ないから昼間に呑んで、夜は旅館に泊まるという。
「すごく楽しそうですね。いいなあ」
茄緒が心底、羨ましくレジを打ち精算を済ませた男客は帰って行った。
海釣りか……
いいかも
色々と考えていると先ほどまでの憂鬱が消えた。
帰ったら色々調べてみようとほくそ笑み、それからは明るく接客と仕事をこなした。
アルバイトが終わり文字通りダッシュで家に帰ろうとした時だ。
見慣れた白いSUVが駐車場に停車しているのが視界に入る。
なんで………
茄緒は自分のテンションが急降下していくのを感じる。
昨夜あんなことがあったばかりなのに顔を会わせたくない。
茄緒が身を低くして店内に目を向けたが、それらしき人物はいない。
車の周りにもいない。
確認し、走り出そうとした時だ。
「おい」
低い声が聞こえた。
立ち止まりゆっくりと声の方を見ると、ベンチに耕平が足を組み腰かけていた。
半袖のポロシャツに、ジーンズ姿で、髭は剃ってあった。
両肘を背もたれにのせている。
シルバーの腕時計をしていた。
ベンチは陰になっていたので気づかなかった。
「なんでいるんですか、耕平さん」
茄緒が心底嫌そうに云うと、耕平が楽しそうに口を開く。
「客に向かって、失礼な奴だな」
「何かお買い物ですか」
「ああ」
耕平が弁当の入ったレジ袋を見せた。
「そうですか。じゃあ、わたしは失礼します」
嫌な予感を感じ、その場から早く去りたかったのだが耕平がさらに声をかける。
「雷の時を覚えているか?」
「?はい」
「ずぶ濡れのあんたを拾ったとき、あんたは何と云った?」
茄緒は記憶の糸を引っ張り寄せ、脳内の映像を再生させる。
頬に美しい指先を当てた。
「ええ?……ええと……車の中で……お帰りなさい、フランスはどうでしたか……車を濡らしてすみません……あ」
茄緒はある台詞を口にしていることを思い出し、言葉を止めた。
が、すでに気づいている耕平が意地の悪い笑みを浮かべている。
「その先は?」
茄緒が恐る恐る、口にする。
「……お掃除させてください……ですか?」
「そうだ。忘れたわけではなさそうだな、いつ掃除してくれるんだ」
確かに茄緒は自分でそう云ったことを思い出した。
茄緒が口ごもっていると、さらに耕平が続ける。
「まさか、公言を破る気か?」
「公言って」
茄緒が何か反論の言葉を探していると、耕平がベンチから立ち上がる。
「今からだ」
「え?」
「今から、掃除してもらう」
耕平は自分の車に向かって歩いて行く。
「待って下さい、そんな急に」
「待たない。午後からは事務所もない。明日も休みだ」
「わたしにだって、予定があります」
茄緒が云うと、耕平は立ち止まる。
「今からはとりあえず、何もないんだろう?」
「まあ、それは……」
「決まりだな。早く乗れ」
耕平が運転席のドアに触れると、スマートキーのロックが解除された。
耕平が運転席に乗り込み、茄緒も渋々、助手席に乗り込んだ。
シートベルトを締める。
「ジョギングの格好なのに」
「ちょうといいだろう、作業しやすい……それとも」
耕平が車のエンジンスイッチを入れた。
「ここの三角巾とエプロンでもいいぜ」
「うわぁ、耕平さんキモい」
やだーエロオヤジ、と茄緒が続けたが耕平の顔は涼しいままだ。
「なんとでも云え。その代わり、手を抜いたら赦さんからな」
「はいはい。マイボス」
茄緒が抵抗をあきらめ呆れ顔で返し、耕平は瞳に笑みを浮かべ車を走らせた。