檸檬の黄昏
坂口耕平
家に戻って着替えを済ませ、とは言っても昨日のグレースウェットに取り替えるだけである。
小夜からプレゼントされたこの服はとても着心地が良く、すっかり茄緒のお気に入りとなった。
有名ブランドの似たものもあるが比較にならない快適さだ。
洗寝る前に洗濯してそのまま乾燥機能を使い乾かしたので、清潔にはしておいた。
まだ掃除の続きもあるので楽に着られる物が良い。
町外れの洋菓子店で購入した焼き菓子詰め合わせの入った紙袋を持ち、隣人宅の敷地内に赴く。
隣人は茄緒の家の隣、三軒並んでいるうちの真ん中で、もう一軒も使用中らしい。
三軒は外観も間取りも全て同じである。
茄緒の家と違っていることは、玄関横に七輪が置いてあったことだ。
他にバーベキューコンロ、炭の入った袋。
使用している形跡もある。
庭には国内メーカーの白いスポーツ用多目的車、いわゆるSUVが一台、停車していた。
それらを視界に収めながら玄関に立つとインターホンを押す。
一度は反応がなかったが、二度目で応答があった。
「隣に引っ越して来た者です、ご挨拶に伺いました」
茄緒がインターホン越しに言うと数秒の間を置き、玄関が開き昨日の大男が姿を現した。
家の中から電子煙草の匂いがする。
バランスの良い体型に茄緒と色違いのような、紺色のスウェット上下。
ボサボサな黒髪に無精髭。
寝癖なのか癖毛なのか。
いや、おそらく両方だろう。
目元も顔もほとんど髪の毛と髭で覆われていて、どんな人相なのか分からないが、うねった前髪の隙間から男らしい眉が見え黒い瞳がのぞいている。
中央に形の良い鼻筋が通っていた。
年齢は見た目からは判断出来ないが五十代位だろうか?
昨日と同じ服を着ていたように思える。
ひょっとしたら何日も取替えもしていないのかもしれない。
改めて見ると怪しいところしかない、あぶない人物に見え、茄緒は不安になった。
しかし小夜は悪い人ではない、と云っていた。
それを信じ動揺を隠し平静を装う。
「昨日はご迷惑をおかけして、すみませんでした。おかげさまで大事にならずに済みました」
茄緒は頭を下げた。
いくら身なりが危ない人物であっても恩人であることには変わりはないのだ。
「隣に引っ越してきました、相川と申します。よろしくお願いいたします。良かったら召し上がって下さい」
茄緒が差し出すと男はそれを受け取った。
薬指に銀の指輪をはめている。
「坂口だ。火の取り扱いには、気をつけろよ」
落ち着いた男の低い声である。
それ以上は何も言わなかった。
もっと叱られると思っていた茄緒は心底、ほっとした。
そして既婚者だったのかと薬指の指輪を視界におさめながら、気をつけます、ともう一度軽く頭を下げる。
茄緒はそこを後にしようとしたが、あっと思いだし踏みとどめた。
「小夜さんからコウヘイ君によろしく、と云われてきたんです。坂口さんのことですか?」
「………そうだ。おしゃべりだな、あの人は」
面倒そうに言い、坂口はため息をつく。
「坂口耕平(さかぐち こうへい)だ」
「相川茄緒です。改めてよろしくお願いします」
茄緒を見つめていた耕平の瞳が、笑ったように見えた。
「何です?」
「あんたのその服。小夜さんがくれた物だろう?」
「え、はい。どうして……」
わかったんですか、と言いかけて茄緒は気づいてしまう。
「坂口さんと色違いだったんですね」
「ああ。あの人の作る服は着心地が良くてな。こればかり着てる」
「これ、小夜さんが作ったんですか?」
茄緒は驚き耕平は頷いた。
小夜のハンドメイドは自作のタグがついており、市販品のように仕上がっている。
生地も寸法も拘って作っているので質の良い仕上がりになっているのだろう、との事だった。