檸檬の黄昏
どのくらいの時間が流れたのだろう。

玄関に座り壁にもたれたまま、茄緒は動くことが出来なかった。
床から体明な糸が出ていて、体を動かないように拘束しているように感じた。

指を動かすことも出来ない。
汗が流れているようだが、それ以外の感覚もない。

光のない虚ろな瞳の奥で、思い出せずにいた茄緒の昔の記憶が甦る。



五年前。

結婚前の禿は仁徳のある、人当たりの良い優しい人物だった。


しかしそれは表向きで、結婚した途端に本性を表し悪魔に変わった。


おまえは見た目だけ、何もできないと罵られる暴力と暴言。


それでも茄緒がどこかで信じていたのは学生の頃から七年の交際期間があり、初めての男だったせいもある。

仕事が大変なのだろうと気づかったが、それが激昂させた。


「また上から目線?は、生意気だな」


家の中は割れた物が散乱し、壁には穴が空いている。
今日はいつもより特に荒れていた。


「わたしは、そんな」


若い茄緒が答えると、禿は激しい平手打ちを繰り返す。

茄緒が倒れると髪をつかみ、引きずる。
ネクタイとベルトで手足を固定しすると動けないように自由を奪い、口にはタオルを突っ込み、粘着テープで抑える。


「まあ、いい」


禿は鍋に油を煮立ていた。

それが十分に熱く煮えたぎった所で、その鍋を掴み茄緒に近寄り茄緒のシャツを引きちぎる。
ボタンが弾け飛んだ。


「きみは美しい。誰にも渡さない。だから今から、ぼくの物だという印をつける。きみを自由に扱えるのは、夫である、ぼくの特権だ」


禿は煮えた油を茄緒の腹の上に、ゆっくりとぶちまける。

茄緒の悲痛な悲鳴、タオル越しのくぐもった叫び声が部屋に響き渡り、腹部から下腹部にかけて茄緒の美しい皮膚が無惨に焼けただれていく。

禿は笑っていた。



「きみは絶対に、ぼくの物だ」



この時の禿は人間に見えなかった。

どす黒い人型の何かに見え、その笑っている声を聞きながら茄緒の記憶は、そこからない。
気づいた時は病院のベッドの上で、かたわらで弟が泣いていた。

壁にもたれた茄緒の瞳から涙があふれた。
目を閉じる。



思い出せないのではなく、辛かったから忘れようとしたのかもしれない。




見た目だけだと罵られたから、様々な職業でスキルを身につけようとしたのかもしれない。




茄緒はお姉さんだから、涼の面倒を見るのよ。




幼い頃から両親にそう云われていたのに、弟を泣かせてしまった。




そう、自分は全てから目を背け逃げていたのだ。



涼………


笑顔で弟が、こちらを見ている。

その涼の影が、背中を向けた男へと変わる。


おれはそんなに信用がないのか


耕平の声が遠くに聞こえる。



違うの


本当は

自分を知られたくない
見られたくない
嫌われたくない
いい子でいたいの



みんなが思っているほど、自分は綺麗なんかじゃない



わたしのことを知ったら、あなたは嫌がる
あなたに嫌われることが怖い




だって

だって


わたしは



あなたのことが……



「!」


茄緒が目を開けると、白い天井が見えた。
涙がポロポロと零れ落ちる。

夢?

自分はベッドに寝かされていた。
四方をクリーム色のカーテンで仕切られている。

カーテンの向こうで人の気配を感じる。
近づいて来て、カーテンが開いた。
目深にフードを被ったパーカーに、ジーンズの男だ。
目を覚ましている茄緒を見て、パーカーのフードをあげた。


「姉ちゃん!大丈夫か?」

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