檸檬の黄昏


茄緒の容態を確認し面会を済ませ病院から帰路についた耕平だが、自宅へは戻らず事務所へ向かう。


事務所には明かりが点いていて、敬司の黒いジープが敷地内に停車した。


出張の経過報告とこれからの予定について話し合う事になっていたからだ。

九月に入り夜は少しずつ冷え込むようになってきた。

一ヶ月前の灼熱の暑さが嘘のようである。
エアコン無しでも過ごせそうだが周囲が森のこの辺りは、事務所の明かりに群がる虫が凄まじく、窓は開けられない。

夏から秋の虫の歌声に変わりつつある大合唱を耳にしながら、耕平が事務所内に入ると弱い冷房が効いており、チェアに腰かけた敬司が自分のデスクでパソコンを使っている。


「茄緒ちゃんの容態はどうだ?」


パソコン作業を中断し敬司が耕平を見る。
耕平から茄緒が倒れた事を聞かされていた敬司は、仕事の話しからは切り出さなかった。

耕平も自分のチェアへ腰を下ろす。

電話では軽い熱中症とだけ伝えたが、それだけではない事を伝える。

涼の話と禿雅史の関係、茄緒の過去について掻い摘まんで話した。

敬司は深くは追求せず頷く。


「おまえが来るまで禿雅史について、ちょっと調べてみたんだがな」


敬司が云った。


「禿はマンションなんかもいくつか所有している、資産家でもあるんだ。なんでも先代の爺さんが、勲章もらった政治家だったとか何とか」


それは良いのだが禿雅史には黒い噂がある。

彼の周りで動物が次々と不審死しているのだ。
虐待や拷問をされた形跡がある。
だが証拠もなくまた捜査されることもなく、疑惑が浮かんでは消えるを繰り返している。

敬司は耕平に目を向けた。


「虐待男なんかに仕事で負けたくない。おれは禿よりは上へ行く。こんな奴に大きな顔されて、たまるか」


敬司が丸太のような腕を組み吐き捨てた。

禿雅史は莫大な遺産と資産を持っている。
それを元手に株などの投資を行っているのか、譲り受けた時よりも資産が増えているという。

それに加えて自らの弁護士業、テレビでもタレントとして知名度を上げ禿自体の株も駄々上がりだ。

そんな禿が茄緒に執着する理由。

それはずばり美貌だ。
金では買えない類い稀な美貌を持ったがゆえに、玩具として茄緒は目をつけられたのだ。

しかし彼女は一般家庭育ちの普通の女性だ。
両親もおらず後ろ楯も何もない茄緒は、禿の権力と力を前に逃げるしかなかったのだ。

恋愛はこりごり
もう愛されることはない

茄緒は云っていた。
あの明るい笑顔の裏ではいつ見つかるか、捕まるかという不安と恐怖でいっぱいだったのだ。
そして今度こそ禿の手によって破壊されてしまうに違いない。
不審死を遂げた動物たちのように。

耕平は無言だった。
目元が影になっている。


「潰してやる」


耕平が静かに口を開いた。
敬司が耕平を見る。


「地位、名誉、財産というわけだ……手に入れてやるさ。そして身動きとれんように、追いつめてやる。おれのやり方でな」


耕平の冷静な瞳の奥に炎が起っている。
敬司はそれを見ると声を出さずに笑った。

元来の耕平は負けず嫌いの闘争心の塊だ。

それが打ち砕かれ自分が無力だと知った時の絶望は、計り知れない傷を負わせた。

一度味わった苦汁を彼が繰り返すはずがない。


彼は一度そこで目を閉じ考え込んだ。


以前の耕平ならば全てをそれに注ぎ込んだに違いない。
目をゆっくりと開き、敬司に顔を向ける。


「敬司。ただ……」


耕平がある事を静かに告げる。
敬司はそれに驚き次には呆れ、最後には勝手にしろ、と笑った。


「いい感じに変わったな。耕平」


耕平と敬司は事業拡大に向けて新たな決意を固める。

二人に本当に必要だったものは闘争心に火を着けるライバルの存在だったのかもしれない。

思いがけない形でそれを得て、二人は更なる高見を目指して行くこととなった。


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