檸檬の黄昏
退院した茄緒は三日間、家で安静に過ごしていたが体力も回復し、いつもの日常を過ごせるようになった。
外出していた茄緒が自分の自動車で自宅へ戻ると、事務所の明かりが点いている。
時刻は夜七時を回っていて終業時間まであと一時間。
先ほど道の駅に辞める旨を伝え辞表を提出してきた。
とは云っても今月いっぱいまでは働かせてもらい、来月は引っ越しの手続きに入る。
道の駅のメンバーはとても残念がりひき止めてくれた。
小夜もまた新しい住居を紹介するとまで云ってくれたが、茄緒は好意と気遣いに感謝しながらも辞退した。
そして辞表を提出する働き場所はもう一件。
茄緒は自宅に車を停車させると封筒に入った書類と、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを二本持ち、事務所に向かう。
中へ入ると耕平が一人で片付けを行っていた。
移転に向けた事務所は段ボールが山になっている。
スラックスに袖を捲ったワイシャツ姿だ。
茄緒が声をかけると作業を続けながら、茄緒を見た。
「差し入れです」
茄緒がミネラルウォーターを渡す。
「気が利くな」
耕平は受けとると一本を早速、口を付けて流し込んでいる。
額には汗が浮かんでいて、よほど喉が乾いていたと見える。
そんな耕平を楽しそうに見つめた。
もう一本は敬司の分だが敬司は移転先で手続きと、自分の住処を探しなどを行っているそうだ。
茄緒の胸が刺すように痛んだ。
もうこの事務所の二人には会えないのだと。
それでも、これは自分が決めた事だ。
封筒に入れた書類を辞表を耕平のデスクに置いた。
「………」
耕平はデスクに置かれたそれを見つめていた。
「自分の荷物はまとめていけ」
と、それだけだけ云った。
茄緒は頷き片付けを始めたが耕平は茄緒を見つめ作業を中断する。
気分転換したかったのか耕平は一度、顔と手を洗いに洗面所へ向かう。
茄緒は片付けを続け首にタオルをかけて戻った耕平に、茄緒はこれからの事について訊ねた。
「移転先は決まっている。後は手続きだけだ」
事業拡大に伴い空港に近い場所に移転し、人員を増やす。
今の事務所のパソコン、備品類は、ほぼ廃棄する。
新しい事務用品を購入し、揃える。
取引先への移転の案内、引っ越し期間の休業の案内。
電気、ガスの停止。
新しい事務所での雇用案内などなど……。
「仕事はたくさんありますね」
「そうだ」
耕平は電子煙草をポケットから取り出したが、口には運ばなかった。
「あんたはどうなんだ。ここを出てどうするつもりだ」
茄緒はデスクの荷物をまとめながら、口を開いた。
「ここへ引っ越してきた時、無職でした。今もアルバイトですけど」
茄緒は手を休めない。
「道の駅と事務所。二つで働けましたから、次もどこかは見つかると思います」
辞書や資料をまとめ茄緒はひといきついた。
「そんな生活を一生、続けていくつもりなのか」
耕平が云った。
「……耕平さんには関係のないことじゃないですか」
茄緒が口を開く。
精一杯の強がりのつもりだ。
「わたしのことは放っておいて下さい」
まとめたファイルや辞書の山に目を向けたまま茄緒が云った。
今の家で過ごす日々は茄緒にとって全てが癒しだった。
だが茄緒はそういう素振りは見せなかった。
今までも茄緒は自分の奥底は見せずに進んできた。
これからも、そのつもりだったから。
「そうか」
耕平が素っ気なく返事をした後、言葉を続ける。