檸檬の黄昏

「じゃあ。おれもあんたと行くかな」


耕平が云った。


「今の会社を捨てて、あんたと行くのも悪くない」
「もう、また……。からかわないで下さい、耕平さん」


茄緒は笑って顔をあげた。

しかし耕平の瞳は真っ直ぐに真摯な光を宿している。
からかっている表情ではなかった。

茄緒の胸が音をたてる。


「あんたがいない場所で何を目指す?会社は敬司がいれば十分だ」


耕平は茄緒を見つめたままだ。


「茄緒。おれはもう迷わない。一緒にいてくれないか?これからもずっと」


耕平はまるで、わがままをお願いしている子供のようだった。


「仕事より、もういない沙織より。あんたといたい」
「……耕平さん、それって……」


耕平を見つめたまま、ゆっくりと茄緒は立ち上がる。

思いもしなかった耕平からの告白に茄緒は混乱し、からかわれているのか、嘘なのか夢なのか。

嘘でも夢であっても嬉しいことには変わりはなく、茄緒は顔を赤らめた。


「すごく嬉しいです。耕平さんに、そんな風に云ってもらえるなんて」


今すぐに耕平の胸の中へ飛び込みたかった。

しかし腹の火傷跡がうずきだし、茄緒は両腕で腹を抱えた。
黒い影の禿が嘲笑っている。


「嬉しいです。嬉しい。本当に。……でもわたし、ダメなんです」


茄緒は耕平を見る。


「火傷跡があるんです。元夫は、それを烙印だと。普通の火傷跡じゃありません」


耕平は気持ちを伝えてくれた。
だから自分も正直に伝えようと思った。
逃げていた自分も耕平に伝えた。


「きっと、これを見たら」


目を伏せ影を落とす茄緒を耕平は小さく笑う。


「だがその傷が、今のあんたを作ったんだろう。おれだってそうさ」


耕平は云った。


「同じ傷があったら、あんたはおれを嫌うのか?」
「そ、そんなわけはありません。耕平さんは、耕平さんです」


耕平はじっと茄緒を見つめている。
彼には既に返答は分かっていたようであった。

茄緒が目を反らす。


「耕平さんはズルいです。いつもそうやって、何でも見透かしたみたいに」


瞳に涙が溜まっている。

耕平の言葉はストレートで、しかし反論する言葉が茄緒には見つからなかった。

茄緒と耕平が過ごした毎日は、お互いを理解するには充分な時間であったから。


「怖いんです。軽蔑されたり嫌われたり。その相手が耕平さんだったら。がっかりさせてしまうかも、って考えたら」


茄緒の美しい瞳から涙が零れ頬を伝う。

その表情は儚く茄緒の心の奥底の脆さを現していた。
ガラス細工のように繊細なのに、傷だらけの茄緒の心。
だが温かさを失ってはいない。
それ故に茄緒は苦しんでいるのだ。

だから本音を誰にも見せなかった。

耕平が歩み寄り正面に立ち茄緒を抱き寄せる。


「それも同じだ」


耕平の低い声が、いつになく優しく響き茄緒を包み込む。
電子煙草の香りがする耕平の身体は暖かく、力強かった。


「いつまでも沙織の影を追いかけていた、情けないおれを身限らないかとね」


茄緒と耕平は似た者同士だった。

お互いの欠点をお互いが理解し合えていなかっただけなのだ。
それは想い合う二人には何でもないことであったのに、踏み出せずにいただけだった。



「本当にわたしでいいんですか……もう三十路ですよ」



茄緒が涙を流しながら笑顔を見せる。

耕平は両手で茄緒の小さな顔を包み、親指で涙をぬぐう。
耕平の手は大きく硬く温かい。


「おれも三十後半だ。若い男がいいのか?」


茄緒は顔を包む両手に自分の手を重ねる。


「そんなわけがありません。耕平さんがいいです」
「そうだろう?おれも、あんたがいい」


耕平の顔が近づき額がくっついた。
お互いの鼻先が触れる。


「キスしたい」
「……どうぞ。わたしで、よければ……」


茄緒の瞳が閉じられ涙がこぼれる。

耕平は顔をずらし茄緒の唇に自分のそれを重ねた。
少ししてから離れる。
顔を包んでいた片手が後ろから髪に差し込まれ、もう片手が茄緒の細い身体を抱き締める。

再び顔が近づき唇が重なる。


「一回とは云ってない」


耕平は幾度となく口づけを繰り返す。
茄緒を強く抱き締め、耳元で囁いた。


「好きだ。茄緒」
「……え?なんですか?」


聞こえなかった、と茄緒は云った。
耕平がもう一度、云う。


「もう一回、云って下さい」


ようやく耕平は気づき面食らった後、苦く笑う。


「こいつ」
「さっきのキスのお返しです」


茄緒は腕を伸ばし耕平の頭の後ろで腕を絡める。


「わたしも好きです。耕平さん」


今度は茄緒から耕平に唇を重ねた。


「大好きです」


涙に濡れた瞳で笑顔を見せた。

ふたりの間に隔てる壁はもう何もない。
何度も何度も愛を確かめ合う。


ふたりが甘美な時間を過ごしている間に茄緒の家の檸檬の木は、いつの間にか小さな実を結んでいた。




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