檸檬の黄昏
復讐
講演会も終わり茄緒は帰りの通路を歩いていた。
耕平と敬司は取引先や企業仲間と雑談を交わしている。
耕平に先に車で待っているように云われたので、外へ向かう途中だったのだが。
混雑する正面入口ではなく裏廊下を通り抜け外に出ようとした時である。
通路横に会議室と表札が出ているが今日は、そこは禿雅史が荷物置き場として利用しているようだ。
『禿雅史様』と張り紙がしてある。
茄緒は背筋が寒くなり足早にその場を抜けようとした。
「おや、ぼくに会いにきたのか?」
開いていたドア中から突然、腕が伸び茄緒の腕を掴む。
そのまま室内へ引っ張り込まれた。
「!」
茄緒は勢いで床に倒れ込んだ。
鍵をかける音がする。
茄緒が悲鳴をあげる間もなく男の声がした。
「茄緒、君の方から来るとはな」
禿雅史が茄緒を見下ろしている。
茄緒は立ち上がり、禿から離れた。
「仕事よ。あなたに会いに来たわけじゃない」
きっ、と睨むように禿を見る。
そのあとで表情を僅かに緩める。
「……いいえ。あなたの講演会だと、わかっていたのに来たんだから、会いに来たことになるのかな」
泣き叫ぶことを想像していた禿は茄緒に懐疑的な眼差しを向ける。
「何を企んでいるんだ、茄緒?」
「……なにも」
茄緒は口を開く。
「雅史、これだけは云っておくわ」
茄緒は禿を真っ直ぐに見る。
「わたしにつきまとうことは金輪際、やめて。これは、あなたのための忠告でもあるのよ」
茄緒のアクセサリーが光る。
「もう、これ以上はないの」
「ぼくに指図をするな。きみに、そんな権利はない」
禿は云い捨てる。
「仕事だと?あの男、ずいぶんと君に入れ込んでいるようだな。身の程をわからせてやる」
茄緒はため息をつき禿を見た。
「哀れな男ね」
泣き叫ぶことを予想していた考えは茄緒の言葉に一瞬、怯んだ。
「そんなにわたしが羨ましい?」
茄緒の目は強くそして冷静そのものだ。
「もう執着はやめたら、雅史。あなたにも大切なものがあるでしょう」
「……なんだと?」
禿の声に怒りが混じり視線が突き刺さる。
茄緒は改めて禿に向き直る。
「わたしはもう怖くない。わたしを受け入れてくれた人がいるから」
茄緒が禿を見つめ口を開く。
「その人は、わたしの傷も今のわたしを作った一つだと云ってくれた。あなたの烙印なんかじゃない」
茄緒は静かに、だが、はっきりと答える。
「もう逃げないわ。いえ、逃げる必要なんてないもの」
禿は美しい瞳を細める。
「茄緒……おまえ、ずいぶんと上から目線じゃないか。ぼくを挑発しているのか?」
禿の瞳にサディスティックな影が浮かび上がる。
茄緒に近づいた。
茄緒が逃げようとするが掴まり、禿はそのまま壁に押し付けた。
「また教え込まないとわからないようだな、茄緒」
茄緒が禿に拘束されながらも哀れな視線を送る。
「後悔するわよ、雅史」
「黙れ!」
禿が手を振り上げ、茄緒が反射的に瞳を閉じる。
振り上げた手を茄緒に叩きつけようとした。
しかし、それは出来なかった。
「そこまでだ」
耕平が禿の手首を掴んでいた。
瞳が冷たく禿を見下ろしている。
「な、なに!?貴様、どうやって……!」
ドアの鍵は掛け他に入り口もない。
窓もない密室のはずだ。
禿の力が緩んだ隙に茄緒はすり抜け禿は離れた。
茄緒は耕平の胸の中に飛び込み、茄緒を抱き止める。
「後悔するって云ったでしょ?」
耕平の肩口で茄緒がボソリと呟いた。
「おや?騒がしいと思ったらトラブルですか?」
これまた後ろから、涼が姿を現す。
「なに、これは……!?」
「なにって、撮影ですよ?」
涼が静かに笑った。
「おれの初ミュージックビデオのね。今までの様子、ばっちり撮影されてますよ」
完全な室内だと思ったいたそこは撮影の為に設置されたセットだったのだ。
ドアは一応、施錠できるが形だけでロックはかからない。
しかも後ろの壁をドアごと取り払い、耕平と涼は、そこからセット内に侵入したのだが、茄緒に夢中で背後の状況に禿は気づかなかったのだ。
よく見ると四方にもカメラが取り付けてある。
涼の撮影スタッフが撮影道具を持ち、呆気にとられている。
ざっと二十人はいただろうか。
「偶然ですね。講演会の場所と、おれの撮影が重なるなんて」
「なるほど、ぼくを嵌めたというわけか。どうりで」
禿が茄緒を見る。