檸檬の黄昏
場面は、倒れた茄緒が病院でが目覚める少し前まで遡る。
待合室で耕平が長椅子に腰かけていると、フードを目深に被った青年が近づいてきた。
指でフードを上げる。
「耕平さん、茄緒は」
涼に連絡が来た時、彼は撮影中であり抜け出せなかったのだが運良く撮影が早く終わり、駆けつけたのだ。
茄緒は眠っている。
着衣に乱れがあり腕には掴まれたような痣があった。
「……!」
話を聞いた涼は力なく耕平の隣に腰かける。
夜の待合室は誰もおらず、耕平と涼だけだ。
「襲ったのは、茄緒の前の男ですか?」
涼かうなだれたまま訊ねる。
目元は前髪で隠れていた。
「なんにせよ。姉は危害を加えられたんですよね」
涼が云った。
「おれが付いていながら、すまなかった。それで済む問題じゃないが」
耕平の言葉に涼は顔を上げる。
「耕平さんは姉の恋人ではありませんから。仕方がありません」
涼が云った。
沈黙が流れる。
「茄緒は何か云ってましたか?前の結婚について」
「……いい別れ方をしなかった、と云っていたな。恋愛はこりごりだと。禿雅史が夫だったそうだな」
涼は頷く。
「耕平さんには色々と話してるんですね、姉は。前に住んでいたところでは、誰にも話しませんでしたよ。バイトも転々としていましたし」
涼は言葉を切った。
茄緒が苦しんでいる本当の理由を涼は知っている。
しかし、それには触れなかった。
「耕平さんは姉をどう思っているんです?ただの友達で従業員ですか?」
涼が訊ねた。
前妻の妹である麗香にも似たような質問をされた。
その時ははぐらかした耕平であったが。
「茄緒は友達以上だと思っている。ただの従業員などとは思っていない」
涼がその言葉に微笑し満足げに頷いた。
「茄緒の心の闇は深いです。茄緒も自分でそれがわかっているから、苦しんでいるんです」
涼は五年前の病院を思い出した。
酸素マスクをつけた茄緒が病院のベッドに寝かされている。
涼は泣きながら、痣だらけの姉の手を握っていた。
涼、ごめんね……
こんなことになって
心配させて、ごめん
泣かないで、涼……
意識の戻った茄緒が泣いている弟を見つめ、涙をこぼしていた。
この時に涼は決めたのだ。
禿に絶対に復讐してやると。
歯を食い縛り瞳を激しい怒気と憎悪で満たし、涙を流して涼は誓ったのだ。
「……耕平さん。茄緒はいつも自分を犠牲にしてきました。おれは姉の面倒は一生、見るつもりでいます。あなたが遊びで、そんなことを云うとは思いません。信じていますよ」
耕平は頷いた。
涼は立ち上がると茄緒の顔を見るために病室へ入っていく。
ーー
涼は病院での回想から戻り現在の茄緒と耕平を見る。
茄緒は泣いていない。
笑顔だ。
「監督が絵になる二人だって感心してたよ。二人で役者はどうよ?」
茄緒と耕平は顔を見合せる。
「勘弁してくれ」
耕平は口を開く。
「わたしも」
茄緒は笑った。
しかし面白がった涼は姉に詰め寄る。
「あの台詞はアドリブなんだよね、ほとんど。いやあ、マジ姉ちゃん最高じゃん」
顔を赤くする姉の顔を覗き込む。
更に追及しようとした時。
耕平が茄緒の両肩に手を乗せる。
「涼君、もう赦してやってくれ。頼む」
耕平が微笑する。
オトナの余裕という奴だろうか。
耕平の洗練された表情と仕草に、今度は涼が赤面した。
「おれたちは失礼する。またな」
「はい。また」
後ろ姿を見つめ涼は腕を組む。
自分は二十六歳である。
芸能人として遅咲きか早咲きかと訊かれれば、運良く仕事を取れるようになっただけで早くはないのかもしれない。
しかし社会人としての二十六歳は、ちょっとした大人ではないのか、と涼は考える。
だが耕平とは九才の年齢差があり向こうからみれば自分は、まだまだ子供なのだ。
「茄緒とくっつくとあの人、本当に兄ちゃんになるんだよな」
涼は頬を紅潮させる。
「やべぇ。マジで鼻血出そう」
口元と鼻を手で覆う。
その後、本当に鼻血を垂らした涼をマネージャーとスタッフが救護にあたっていた。