檸檬の黄昏
「申し訳ありません、坂口CEO……!」
低頭する新人を気にするな、と敬司が慰めている。
COO(副社長)の名札と、会社のロゴのピンバッヂがスーツの襟に付いている。
「なあ、バーベキューでも食べて元気になろうぜ。坂口CEOが自宅で振る舞ってくれるぞ」
新人の背中をグローブのような手が叩く。
「仕事も私生活も、失敗は付きものだ」
と、笑う。
スキンヘッドに黒いスーツに貫禄のある巨漢。
これは彼のトレードマークであり、変わらない貫禄ように見えた。
今は上海支店を主に活動しており住まいも向こうだが、たまにこうして報告も兼ねて帰って来る。
茄緒がCEO室の給湯室からお茶を乗せたトレーを持って現れた。
「久しぶりに十センチ同盟が揃ったな」
敬司が茄緒と耕平に白い歯を見せて笑うと、新人と部長のふたりは頭に疑問符を浮かべていた。
「根つめなくても平気ですよ。先鋒には、わたしから連絡しておきます。わたしがここで働き始めてから知ってる方なので、大丈夫です」
とりあえず一息いれましょうと、ソファに誘導し、淹れたお茶をテーブルに置いた。
「相川CHO(最高人事責任者)、超癒されます」
新人が茄緒に見とれ頬を赤らめる。
それを見た耕平は、ますます不機嫌になった。
「いい度胸だな。茄緒に色目をつかうとは」
「そうですよ。わざわざこんな田舎に、しかも耕平さんの近くに勤務希望した、度胸のある方ですよ」
茄緒が笑った。
今でも変わらない美貌を保っているが、それに加えて女性らしい艶かしい雰囲気を持つようになり美しさが増しているようだ。
敬司と新人のやり取りを訊いていた茄緒が、耕平に耳打ちする。
「夕方、釣りに行きましょうか。バーベキューの予定が出来たみたいですよ。敬司さんもいますし」
茄緒の言葉に耕平が茄緒を見る。
「……今日なのか?」
「今日です」
昼休みになり茄緒が釣り道具を取りに家に戻る。
四LDKのウッドデッキのついた一階建て住宅である。
もっと小さくても良かったのだが来客用に一部屋を多めにしたのだ。
道具を揃えていると、遊びに来ていた涼がウッドデッキから顔を出した。
事情を訊いて軽く笑う。
「仕事帰りに釣り?贅沢だな」
少しだけ男らしさと落ち着きのような片鱗を見せている涼が顔を出した。
黒髪に白いシャツ、紺色のジャケットに黒いパンツを身に付けている。
今の家を茄緒と耕平が気に入っているように涼も同様のようで、仕事が一段階した休日は訪ねて来るのだ。
外の空気を吸い大きく伸びをする。
「やっぱり姉ちゃん家は落ち着くな。すげえ元気になる」
様々な作品に積極的に挑戦し俳優として磨きをかけている涼は、いくつかの賞を受賞し、名俳優の片隅に名前を連ねるようになった。
たまに熱愛報道されることがあり茄緒をハラハラと悩ませているが、雲のように掴みどころがなく彼もまた、何も残さない。
だが麗香との交流だけは続いているようだ。
夜、バーベキューを行うことになった事を伝えると涼がやった、と喜び、振り返り部屋の奥に声をあげる。
「おい麗香。今日はバーベキューだ。買い出し行くぞ」
その声に眠っていたらしい麗香が目を擦りながら起きてきた。
傍目には疑わしいふたりなのだが、問い詰めると。
「涼?友達ですよ。それ以上はないわ」
「そうそう。麗香は友達だぜ。これからもな」
涼が片目をつぶる。
なんとく腑に落ちないまま、ふたりで耕平と茄緒の新居へ遊びに来ていた弟と麗香の後ろ姿を見送る。
「信じてやれ」
耕平が茄緒の肩を抱いた。
「あいつらにはあいつらの、考えがあるんだろう」
「ええ……そうなんでしょうけれども」
そう云われても腑に落ちない茄緒だった。