檸檬の黄昏
浴場は誰もおらず茄緒が貸し切り独占状態で今回も利用していた。
浴場の経営者は不満だろうが他人に身体を見られたくない茄緒にとって、そこが最大の利点だった。
ゆっくりと鉱泉につかり身体を清潔にして暖まった茄緒が機嫌良く
浴場から姿を現す。
まとめ髪にしてラグランTシャツにジャージパンツ姿である。
帰ろうとした時。
フロントに囲炉裏があるのだがそこでひとりの男が写真撮影をしている。
レフ番、ライトが設置してあり本格的な撮影だ。
邪魔にならないように通り抜けようとしたが茄緒は気づいてしまった。
「……石田さん?」
茄緒の声に男は振り向き茄緒の顔を見ると、あ、と声をあげた。
「ナオさんですか?」
「はい。相川茄緒です。お久しぶりですね」
茄緒が照れ混じりに頷く。
ナオ、と名前だけ石田が云ったのは茄緒のモデル時代の名前がそれだったからだ。
「いや、驚いた。何よりおれを覚えていてくれて嬉しいなあ」
短髪で日に焼けた肌に白い歯が印象的な中肉の健康的で爽やかな男だった。
年齢は三十二歳。
身長は茄緒より少し低い一七五センチ、半袖のポロシャツ、綿のパンツという服装にカメラを抱え、胸には地方新聞社のネームプレートを下げていた。
「たまたま取材に来てたんですよ。まさか、ナオさんに会えるなんて」
屈託のない笑顔で話すこの男は、茄緒がモデル業をしていた頃に頻繁に取材に来ていた記者で石田 恵(いしだ めぐむ)という。
石田は周囲を見回し声量を落とした。
「その、傷は……ケガは、お身体は大丈夫ですか?」
茄緒は頷いた。
「ええ。もう大丈夫です。石田さんこそ、やっぱりあの後、退職されたんですか?」
申し訳なさそうに茄緒が言うと、石田は慌てて首を振る。
「まあ辞めましたけど、元々おれ向きの仕事じゃなかったんで。今の方が気楽だし、合ってますよ」
ナオさんのせいじゃないです、と石田は笑った。
石田は大手出版社の気鋭の記者で将来有望と期待されていた男だった。
ナオが暴力を受けている事を知りスクープ記事として取り上げ社会的制裁を夫に与えるつもりだったが、逆に潰された。
「おれの力不足でした。真実を曲げられましたからね……悔しいですよ、未だに」
石田は退職後、地方の新聞社に再就職しローカル記者として活動しているそうだ。
「名刺、渡しておきます。何かあったら連絡下さい。おれ、ナオさんのファンですから。それにしても」
茄緒を眺める。
「あの頃より色気があってますます素敵です」
石田は笑う。
お大事にと言葉を残し去っていった。
肉付きが良くなった、ということだろうか。
茄緒は口に出さずに呟いた。
もうひとつ気づいたことがある。
石田が左薬指に銀の指輪をしていたことだ。
結婚したのだろうか。
駆け出しの若い茄緒が密かに憧れを抱いていた年上の男だった。
この時はすでに前夫と交際期間中であったので、浮気とかそういう恋愛感情ではない。
人間として男として尊敬している人物であった。
あの時から確実に時間は動いている。
茄緒は過ぎ去った時間を再認識しながら自宅へと車を走らせた。
浴場の経営者は不満だろうが他人に身体を見られたくない茄緒にとって、そこが最大の利点だった。
ゆっくりと鉱泉につかり身体を清潔にして暖まった茄緒が機嫌良く
浴場から姿を現す。
まとめ髪にしてラグランTシャツにジャージパンツ姿である。
帰ろうとした時。
フロントに囲炉裏があるのだがそこでひとりの男が写真撮影をしている。
レフ番、ライトが設置してあり本格的な撮影だ。
邪魔にならないように通り抜けようとしたが茄緒は気づいてしまった。
「……石田さん?」
茄緒の声に男は振り向き茄緒の顔を見ると、あ、と声をあげた。
「ナオさんですか?」
「はい。相川茄緒です。お久しぶりですね」
茄緒が照れ混じりに頷く。
ナオ、と名前だけ石田が云ったのは茄緒のモデル時代の名前がそれだったからだ。
「いや、驚いた。何よりおれを覚えていてくれて嬉しいなあ」
短髪で日に焼けた肌に白い歯が印象的な中肉の健康的で爽やかな男だった。
年齢は三十二歳。
身長は茄緒より少し低い一七五センチ、半袖のポロシャツ、綿のパンツという服装にカメラを抱え、胸には地方新聞社のネームプレートを下げていた。
「たまたま取材に来てたんですよ。まさか、ナオさんに会えるなんて」
屈託のない笑顔で話すこの男は、茄緒がモデル業をしていた頃に頻繁に取材に来ていた記者で石田 恵(いしだ めぐむ)という。
石田は周囲を見回し声量を落とした。
「その、傷は……ケガは、お身体は大丈夫ですか?」
茄緒は頷いた。
「ええ。もう大丈夫です。石田さんこそ、やっぱりあの後、退職されたんですか?」
申し訳なさそうに茄緒が言うと、石田は慌てて首を振る。
「まあ辞めましたけど、元々おれ向きの仕事じゃなかったんで。今の方が気楽だし、合ってますよ」
ナオさんのせいじゃないです、と石田は笑った。
石田は大手出版社の気鋭の記者で将来有望と期待されていた男だった。
ナオが暴力を受けている事を知りスクープ記事として取り上げ社会的制裁を夫に与えるつもりだったが、逆に潰された。
「おれの力不足でした。真実を曲げられましたからね……悔しいですよ、未だに」
石田は退職後、地方の新聞社に再就職しローカル記者として活動しているそうだ。
「名刺、渡しておきます。何かあったら連絡下さい。おれ、ナオさんのファンですから。それにしても」
茄緒を眺める。
「あの頃より色気があってますます素敵です」
石田は笑う。
お大事にと言葉を残し去っていった。
肉付きが良くなった、ということだろうか。
茄緒は口に出さずに呟いた。
もうひとつ気づいたことがある。
石田が左薬指に銀の指輪をしていたことだ。
結婚したのだろうか。
駆け出しの若い茄緒が密かに憧れを抱いていた年上の男だった。
この時はすでに前夫と交際期間中であったので、浮気とかそういう恋愛感情ではない。
人間として男として尊敬している人物であった。
あの時から確実に時間は動いている。
茄緒は過ぎ去った時間を再認識しながら自宅へと車を走らせた。