神谷ナツカの虚空
その時、丁度剣持が帰ってきているところだった。お察しの通り、ここは剣持の住むマンションだ。
「あら、あなたもここに住んでいるのね、偶然ね。」
彼女はこっくりと顔を下げた。
「あなた、もし知ってたらでいいんだけど、熊谷の引越し先、教えてくれない?」
もちろん、彼女は首を振った。そりゃそうだろう、なんてったって追放されてるんだから。
「あんた、眼鏡どうしたの?」
剣持は俺の方をジロっと睨んだ。こっちは睨まれても困るのだが。確かに、ある意味俺のせいで眼鏡をかけていない訳なのだが…。
神谷はぷいっとそっぽを向き、駅の方へ歩いていった。俺は彼女を追いかけたが、その神谷のコツコツと歩く音がなんとも無情に思えた。
踏切がカンカンと音を鳴らし始めた。神谷が動きを止めたので俺は追いつくことができた。
「俺、もう帰っていいか?」
「……。」
神谷の声が踏切を通る電車の音でかき消された。俺は神谷にもう一度それを聞こうか、聞くまいか悩んだが、答えを出す必要が無くなった。
神谷は踏切が上がると歩き出した。それと同時におもむろに話し始めた。
「ねえ、シン。あんたは自分がとっても小さな存在だって自覚したことある?」
いきなり何を言い出すんだ?こいつは。
彼女はまるで重かった門を開けたかのように、静かに話を続けた。いつものハイテンションな彼女とは別物になっていた。
「私ね、昔、小4ぐらいかしらね、父親と野球場に観戦に行ったのよ。その時も…今もなんだけど、野球には興味なかったのよ。でも、父親に無理やり当選したからって言われて。で、ついたときに驚いたわ。球場は見渡す限り米粒みたいな人がうじゃうじゃうごめいていたの。でも、それぞれは私や父親のように同じ人間なの。それでね、父親によるとね、そこの球場にはその時5万人近くいたらしくて、それで日本の人口は1億ちょっと、っていうのは学校で習っていたから計算してみたのよ。そしたら、たった2000分の1。こんなにもたくさん人がいるのにも関わらず、日本全体でみれば一握りにもならないの。私はその一握りの中のたったの1人でしかならないの。私は愕然としたわ。それまで私は、自分がどこか特別な存在だと思っていたの。家族と一緒に旅行に行ったり、ご飯を食べたりするのも楽しかったし、自分の通っている学校は特別で、自分のクラスは他のどこよりも面白いのだと思ってたのよ。でも、私はそれを知って、私のクラスの、この面白さは全国の学校にありふれたものであって決して特別なものではない。そして、周りの人間からしたら当たり前でしかないということを解ってしまったのよ。その瞬間、私は周りがモノクロに見えて、新鮮さのなくなったように感じたの。でも、この世の中には単に社会のために貢献している人だけじゃなくて、もっと不思議な職についてる人もいるはず、そうに違いない、って思ってたの。それがなんで私じゃないのか、その時は理解できなかった。だから私は、小学校を卒業するまでずっとそんなことを考えてたの。でね、一応答えは出たの。そういう不思議なことや面白いことっていうのは待っててもやってくるものじゃなくて、自分から探さないと見つからないものだ、って。で、中学に入る時、自分を変えようと思ったの。自分からアピールして、宇宙人や未来人に知ってもらおうと思ったの。そんなこんなで高校まで来ちゃったけど、結局今までなーんにも、無かったわね…。」
電車のガタンゴトンという音が鳴り響き、また、静寂のないこの現実に戻らされた気がした。まだ、剱持や長谷川さんに出会うまでのあの日常が一瞬蘇った。
「そうか…。」
こんな返事しか出来ないなんて、憂鬱だ。
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