彼・・・私の天使。
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「お互いに近いのに見えないんだ。マンションが背中合わせで建ってるのね。そういえば劇団は、いつから行くの?」
「あさってからです。朝から授業なんて久しぶりですよ」
「授業があるの?」
「研究生ですからね。一から勉強ですよ」
「そうなの。バイトは続けられるの?」
「はい。授業と芝居の稽古が夕方には終わるんで、バイトには間に合います」
「忙しくなるのね。体、大丈夫?」
「大丈夫です。体力には自信がありますから」
「無理しないでね。頑張って良い役者さんになってね。楽しみにしてるから」
「三十歳までに役者としての将来が見えて来ないと名古屋に帰らないといけないから。両親と兄との約束なんです。あと三年、どんな事があっても頑張って夢を叶えないと」
「良いご家族ね。反対されて家出同然なんて話たくさん聴くけど」
「僕の夢を理解してくれてるから。特に兄には感謝してます。家は俺が継ぐから、おまえは好きな事をやれって言ってくれたんです」
「兄弟っていいものなのね。何か孤独感じちゃうなぁ」
「僕が居てもダメですか?」
窓辺に立って外を眺めてる私のウエストに天使の腕が絡まって、背中から抱きしめられた。その瞬間、ビクッと反応した私に天使は気付いたようだった。
「あの、一つ聴いてもいいですか? 嫌なら無理に答えなくていいです」
「なに?」
「もしかして、過去に恋愛で傷つくような事があったんですか?」
「…………」
「あっ、ごめんなさい。答えなくていいですから」
「…………お店の若い子たちは知らないと思うけど、父の代から居てくれてるマネージャーやシェフは、みんな知ってる事だから。ずっと昔、婚約破棄されたの。二十三歳の時」
「えっ?」
天使は、そっと腕をほどいて私の前に周って、両手で肩を引き寄せ優しく抱きしめた。
「ごめん。辛いこと思い出させて、ごめんなさい」
「大丈夫よ。もう何とも思ってないから、忘れたわ」
「今の僕が、二十三歳のあなたも大切にするから」
天使の胸と腕の温かさと優しさに、すっぽり包まれて、そこはとても安らげる空間のような気がした。
傷なんて、もうどこにもないつもりでいたけれど癒されて、すべてが心地好かった。
「何言ってるの? その頃あなたは、まだランドセル背負ってたでしょ?」
「ランドセル背負ってても、人を愛することは出来るよ。愛してる」
私は思わず顔を上げて天使の瞳を見つめた。
「あなたの過去も未来も全部、愛してる」
天使の唇が私のおでこに、そっと触れて、そして私の唇まで下りてきた。天使の腕に、ぎゅっと力が込められ、もう動けなかった。