ひと雫おちたなら
ポーズなどの細かい指示はなかった。
とにかくリラックスしてほしいという話で、クセで脚を組んだら「それ、いい」と褒められた。
「どうして私なの?」
「なにが」
さらさらとキャンバスを鉛筆が撫でる音がする。
睦くんの視線が、私とキャンバスを行ったり来たりする。
ちょっとこそばゆい、彼の視線。
「モデル、他にもいたんじゃないかなーって。同じ学科にいるでしょ?可愛いひと」
ニットの袖をまくった睦くんの腕が、キャンバスの上を動き回る。
大まかな下書きを描いているようだが、稚拙な言葉を使うなら“魔法の杖を操っている”みたいだった。
「そりゃあね、いるよ。でもゆかりさんがよかったから」
「どうして?」
どうして、私がよかったの?
ほんの一瞬だけ、睦くんの目が迷ったように揺れて、キャンバスに着地した。
「これだけころころ表情変わる人、なかなかいないからね」
「一番きれいな瞬間を切り取ってよね?」
「そんな瞬間、見たことないよ?」
「減らず口ばっかり!」
「そっちこそ」
ふふっと笑い合うと、睦くんは立ち上がり、バッグからいつも聴いている音楽プレーヤーを出して私に見えるように掲げた。
「集中してもいい?」
「……うん、いいよ」
そこからは、言葉のない個の世界に、彼は入り込んでしまった。
おそらく聴いているのは、エリック・サティのジムノペディ。
無の中に自分を放り込み、一心に絵を描く。
真正面から絵を描いている睦くんの姿を見るのは、初めてだった。
何もしゃべらず、何も表情を浮かべず、感情を切り取って、目の前にいる“私”をキャンバスへ写し込む。
オレンジ色に染まる部屋の中で、私と睦くんはたしかに二人きりでいるはずなのに、ここに二人は存在しないような、私と彼は切り離されたような、そんな感覚に陥る。
炭酸水みたいに小刻みに、不規則に弾ける、私と彼の間にある空間。
それはいつまでも埋まらないような気がした。
真剣な眼差しを向けられているのに、彼の視線をひとりじめしているのに、どこかもの悲しい。
どうしてそんな風に感じるのか、この時の私には分からなかった。