ひと雫おちたなら
生まれてこのかた、クラシックに触れ合う機会などほぼなかったと言える。
周りの友達がこぞって習っていたピアノ教室やエレクトーンなんかも興味はなかったし、兄がやっていたこともあって早いうちにスイミングスクールだけは行っていたが。
それも小学校を卒業すると同時にやめてしまった。
音楽の授業で漠然と有名な作曲家くらいは把握したものの、誰がどの曲を作ったのかなんて詳しいことは分からない。
「睦くんはさ、どうしてサティのジムノペディを知ったの?」
「えーっと、昔やってたゲームで流れてた」
「…まさかの理由」
「そんなもんだよ、俺なんて」
家を出る前に何度もちゃんと持ったか確認した、今日のチケット。
不安でもう一度バッグに手を入れてみたら、内ポケットにちゃんと入っている。よかった。
普段あまり出番のない、つやつやの手触りのアイボリーのブラウスにネイビーのフレアスカート。ヒールのあるショートブーツを合わせた。
クラシックを聴きに行く場合、いったいどんな服で行けばいいのか頭を悩ませた末に選んだ服である。
隣を歩く睦くんも、いつもとは全然違う。
いつもはゆるっとだらっとしたシルエットのものを好んで着ているイメージだったけれど、今日はグレーのシャツに堅すぎない素材のジャケットを羽織っている。
学生の雰囲気は残しつつも、ちょっと大人びて見えた。
お互いにコートを着ているので、冷え込むこの時期の夜でも問題ない。
「絵を描く時にお世話になってる曲を、生演奏で聴いてみたいって思ってたんだ。今日は付き合ってくれてありがとう」
「…ううん」
睦くんはお礼を言ったけれど、そもそも今日二人でピアノリサイタルに来たのは、私と浩平がなかなか別れられなかったのを助けれくれたからじゃない。
彼がありがとうと言うのは違う気がした。