ひと雫おちたなら
クラシックを聴くのって、もっと堅苦しくて、もっと敷居が高くて、もっと近寄りがたいものだと勝手に思っていた。
でも、思っていたほどそうでもないらしい。
なんというか、非常にカジュアルだった。
さらっと会社帰りに寄りましたみたいな人もいたし、デニムで来ている人もちらほら見受けられて、学生の私たちが浮いているということもなかった。
初めての場所にちょっと緊張しつつも、チケットに書いてある席を探して、やっとのことで見つけて腰を落ちつける。
ほっと息をつくと、入口でもらったプログラムに視線を落としている睦くんにこそっと話しかけた。
「もっとこう荘厳で、一食五万円くらいのコース料理みたいな感じなのかと思ってたけど、違うんだね」
「…何そのたとえ」
くすっと笑った彼の顔がまた、ちょっと可愛い。
「クラシックに対する私のイメージ」
「様々なんじゃない?たぶん、世界的な指揮者がいるオーケストラとか、オペラとか、そういうのはきちんとした正装じゃないとだめみたいだよ」
「物知りだねえ」
「ゆかりさんが知らなすぎるだけだと思うよ」
口では小馬鹿にしていても、彼のそれがあたたかくて、親しみが込められているのはもうこの数ヶ月で分かっていた。
減らず口を聞くとなんとなく安心してしまうあたり、私も私だ。
彼の手元にあるものと同じプログラムを開いて、ざっと目を通す。
曲名だけを見ても知らないものもたくさんあったが、聴けば分かるだろうか。
開演時間になり、会場の照明が暗くなっていく。
客席が完全に暗転する直前、少しうつむくと隣の睦くんの手が見えた。
すらりとしたきれいな指。当たり前だけど、今日は絵の具はついていなかった。
舞台の中央に置かれたグランドピアノへ小柄な女の人が歩み寄り、ステージから客席に向かって深くお辞儀をする。
ネイビーのシックなノースリーブのワンピースドレスに身を包んだ彼女は、にこりと一瞬笑顔を振りまいたあとでピアノと向き合う。
彼女がイスに座った瞬間、ぴたりと彼女とピアノがひとつになったのが分かった。
この空気、どこかで感じたことがある。
すぐに分かった。
睦くんが、イヤホンをして絵を描いている時と一緒だ。