ひと雫おちたなら
「─────こんなの、いつの間に…」
ただ見に行くのもおかしいと思って、とりあえずアイスコーヒーを頼んだ。
それが届くまでのあいだ、そんなにお客さんのいない店内だからこそ、さりげなく立ち上がって絵の前にたどり着くことができた。
そして、いざ絵を見たら驚いた。
あの時の、あの絵ではなかったからだ。
正確に言えば、きっと“あの時”に描かれたものであることは間違いないのだが、絵の中の私がうたた寝しているその姿は、私も初めて見たものだった。
私が知っている絵とは別物だったのだ。
「あれ?……ああ、驚いたな」
それが私に向けられたものだとすぐに分かり、くるりと振り向く。
初老の上品なヒゲをたくわえた、白髪混じりの男性が目を丸くしてこちらを見ていた。
白いシャツに黒いスラックス、黒いエプロン。
雰囲気からして店主だろうか。
「きみはもしかして…、この絵の?」
「……もう、八年も前のことですけど」
言いながら、そうか、もう八年も経ったんだ、と実感する。
俺の絵のモデルになって、と言われた時の衝撃は今でも覚えている。
時間というのはつらい時は長ったらしく感じるが、楽しい時はあっという間だ。
私の感覚であっという間だったということは、この八年の社会人生活はわりと楽しいってことらしい。
「あの、この絵を描いた人をご存知ですか?」
気になっていたので、すぐに核心に触れた。
「久坂睦くん、のことかな」
「……そうです」
彼のフルネームを、この人は知っている。
ということは…。
「もしかして、睦くんはしょっちゅうこのお店に来ているとか?」
期待を込めたつもりが、首を横に振られて気分が沈んだ。
「久坂くんはもうずっと来ていないよ。学生時代はよく来ていたんだが。この絵は、何年も前に彼から寄贈されたものでね」
懐かしむように、どこか遠くを見るように目を細めて、額縁を人差し指でそろりとなぞっている。
「ここの壁が寂しいから絵がほしいんだよねと言ったら、じゃあこれあげます、と」
やっぱり睦くんが描いた絵なんだ。
でも私が知っている私の絵じゃなかった。
知らないうちに何枚も描いていたのだろうか。
万が一、彼がここに来ることがあったら連絡がほしい。
そうお願いして、お店に私の名刺を置いていった。
連絡が来る予感は、今のところゼロに等しい。
それでもほんの少しだけ期待してしまうのは、やっぱりあんな終わり方だったからかもしれない。