ひと雫おちたなら
その場では強がってそう言ったけれど、たぶん、いや間違いなく、あの時たしかに私はショックを受けていた。
ほんの少しでも、わずかでも、私と睦くんは惹かれあっていたんじゃないかと思っていたから。
それがただの勘違いだったのか、私からの一方通行だったのかは分からないが、数ヶ月だけの短い彼との記憶は、わりと私の中に残り続けた。
ふとした拍子にひょっこりと彼の姿が頭の片隅に思い出され、やっぱりもういないんだと実感させられる。
涙は出なかったけれど、どこかさみしさはあった。
少しくらい、相談してくれてもよかったんじゃないの?
仲がいいって思っていたのは私だけだったのかもしれないと思うと、よけいに悲しくなった。
あのキスは、なんだったの。
二ヶ月後、大学を卒業して、新生活のための準備をしていた三月中旬。
睦くんの絵が入選したと聞いたのは、その頃。
瑠美から連絡が入った。
かなりマイナーな美術雑誌らしいのだが、彼女は睦くんが私にくれたメモを一緒に読んでいたから、どうしても気になっていくつかの雑誌を読みあさったというのだ。
完成した絵を見ていなかったので、瑠美から送られてきた雑誌に目を通して初めて見ることができた。
四月から社会人として働くので、以前住んでいた場所から通うのは難しい。
そのため、新しい土地へ引っ越したばかりの私の部屋は、ダンボールだらけでがらんとしていた。
学生時代よりも少しだけ広くなった静かなリビングで、出したばかりのテーブルに雑誌をそっと置く。
「……きれい」
雑誌のなかで、“私”はとても楽しそうに笑っていた。
横から斜めに差し込む夕陽を浴びながら、微かに肩をすくませて、今にも笑い声が聞こえてきそうな顔をしている。
白いワンピースはさらさらとした質感が手に取るように分かるし、いつも身につけていたネックレスもちゃんと描かれていた。
─────私、睦くんと話す時って、こんな顔をしていたんだな。
ちょっと美化してない?と思うほど、きれいだった。
『美味しそうって褒め言葉じゃないから、嫌い』
彼は自身の絵を褒められても、受け入れてくれなかった。
じゃあなんて言えばよかったんだろう、どう表現したら伝わったんだろうってずっと思っていたけれど。
この時、ふと気づいた。
…そうか、なんでこんな簡単なことを言えなかったんだろう。
「睦くんの絵が好きだよ」と。