ひと雫おちたなら
まるで、私がこうなのは予想がついていたみたいに、彼は嬉しそうに口元を手で隠しつつも笑っているのはしっかり見えた。
なんだかそういう大人っぽい笑い方をされるのも、悔しい。
「美大に通ってた頃みたいな服は、もうずっと着てないよ。髪も全然染めなくなったし、それから、」
睦くんは不自然な間をおくと、テーブルの上の自身の手を見下ろした。
「絵も、もう描いてない」
みずからその話題を振ってくるとは。
そっちに早く触れてほしかったのかな、とも思ったが、何かあったんだろうということは分かっていたので、無神経に突いていいか迷っていた。
「大学やめて、どうしてたの?」
「違う大学を受験しなおした。農学部の食品経済学科で四年勉強して、今の会社に」
「絵は?嫌いになっちゃったの?」
「そういうことじゃなくて、なんていうか、興味がなくなった」
睦くんの言い方には、なにやら別な意味が含まれていた。
それを感じ取って、私は真正面から彼を見つめる。
「絵を描いても、なにも満たされないことに気づいたんだよ」
私にはとうてい理解できないような、彼の中の気持ちの変化。
いくつかのコンテストで優秀賞をとっても、入選しても、嬉しくなかったんだろうか。
だって、彼はたしかにあの時、言っていた。
「なんで?ちゃんと気持ちを込めて描いてるって言ってたじゃない」
「それは嘘じゃない。だけど、終わりのない道に疲れたのも事実なんだ」
「終わりのない道?」
「なにかの賞をもらっても、そこはゴールじゃない。また描け、次の絵を描け、それしか言われない。描いても描いても、完成させたと思い込んでも、あとから“あそこはこうすればよかった”ってそればかり考える。いつも頭の中が絵でいっぱいになる。…この感覚、けっこう俺にはつらかった」
淡々と語ってはいるけれども、当時の彼の葛藤がまざまざと並べられている気分になった。
どこを切り取っても同じものしか生まれてこない、抜け道のない未来のようにも思える。彼は八年前、それと向き合ったのだ。
私が何も言えないでいると、睦くんはその長くてすらりとした指を組んで「ありがとうございました」といきなり口にしたので、なにごとかと目を見開いた。
「最後に絵のモデル、ゆかりさんに頼んだの、お礼言ってなかったなと思って。ありがとうございました。あれ、俺の中で卒業制作のつもりで」
「そうだったんだ…」
たしかに今思えば、睦くんはほかの一回生の子たちとは違っていたかもしれない。
絵を学ぶというより、ひたすら絵を描いているような。
「あと、気になったことがもうひとつ」
そういえば、と私は顔を上げる。
「伊佐山って苗字は、ご両親が離婚かなにか?」
「うん、親は十年くらい別居してたんだけど、五年前かな?そのあたりにやっと離婚して。で、今は母方の姓の伊佐山を名乗ってる」
「後任の挨拶メールを読んでも気づけないわけだ…」
わりと波乱万丈に感じる彼の人生でも、彼本人はあっけらかんとしていて気に留めていない。
そういう性格であることは、分かっていたはずなんだけど。
そこで注文していたビールや料理が何皿か届けられ、いったん会話を区切って乾杯した。
学生の時もそうだけど、二人だけで飲むのはじつは初めてだったりする。
私と睦くんは、近いようでいてそうでもない関係だったのだ。
そう、連絡先さえ知らないような…。