ひと雫おちたなら
「あのさ、田中ってうちにもう一人いるのよ。だから“ゆかりちゃん”って呼んでも大丈夫かな?」
お店の奥にある部屋に通される。
そこはおそらく休憩室なのだろう、テーブル二脚とパイプ椅子がいくつか、その横に丸くて少し低めのテーブルと、一人がけソファーが二つ。
ソファーに腰かけるように促されて座ると、小塚店長は私におそるおそる尋ねてきたのだ。
田中あるあるというか、これは小学校の頃からよくあることだった。「佐藤」や「伊藤」や「佐々木」の苗字の人も心当たりはあるはずだ。
「それはもちろんです、名前でどうぞ」
「みんなにも伝えておくね。ちょっとここで待っててくれる?必要な書類を持ってくるから」
腕時計で時間を気にしながら足早に部屋を出ていく彼女を見送って、くるりと室内を眺め回した。
しんとした部屋で、ボールペンやメモ帳がちゃんとエプロンのポケットに入っているかゴソゴソと確認していたら、カタン、という物音がして驚いてビクッと身体が震えた。
わずかに衣擦れの音も聞こえて、思わず立ち上がる。
入ってきた時には気がつかなかったけれど、この部屋にはもう一人いたのだ。
パイプ椅子などが並ぶテーブルの向こうに、ぺたりと床に座って誰かが何かをしている。
そうっと近づくと、その姿が見えてきた。
ぼさっとした茶髪に、たぶん細身の男の子。長めの前髪のせいで目元は見えない。
よくよく見たら、Tシャツから伸びるするりとした右手に握られていたのは、チョークだった。
ディスプレイ用のブラックボードにチョークで絵を描いている。まさにチョークアートのような、見事なまでのリアルなビールの絵と、美味しそうなとんぺい焼きの絵。
床に散らばるように置いてある何色かのチョークを何度も交代で手に持ってはボードに走らせる。
丸めた背中から、集中しているのは見てとれた。