ひと雫おちたなら
……それにしても、絵がうまい。
今にもテーブルに並べられそうなとんぺい焼きに、するすると足が近づく。
背後にいても彼はまったく私の方を見ない。
というか、私の存在に気づいていない?
─────ああ、なるほど。イヤホンしてる。
彼の耳には黒いイヤホンがついていて、なにやら音楽を聴いている様子だった。
そりゃあこっちに気づかないわけだ。
チョークアートができあがっていくさまを実際に見るのは初めてだった。
完成したものを見たことはあったけれど、ここまで細かく手を加えながら作り上げていくんだ。
描いては指でぼかし、上からまた違う色を塗ってはぼかし、さらに上から違うタッチでアプローチしていく。
何度重ね塗りするんだというくらい、しつこくボードの上をチョークが滑っていた。
「とんぺい焼き……美味しそう」
ほぼ無意識に彼のすぐそばまで寄っていた私は、つい素直な感想を漏らしてしまった。
ふと、絵を描いていた彼が手を止めてこちらを振り返る。
目が合った。
幅の狭い奥二重の目は初めて見た女に一瞬の戸惑いを浮かべたものの、少し見開かれたくらいで大きなリアクションはない。
彼は終始落ち着いた表情で私を一瞥してから、またブラックボードへと視線を戻した。
おもむろに左手でイヤホンのコードを引っ張って外したところを見ると、目の前に人がいるのに音楽を聴いているのは失礼だと思ったらしい。
「はじめまして」
と挨拶すると、彼はうなずいた。
「はい、はじめまして」