自由という欠落
「先生、帰りましょう」
「あっ、……」
岸田はYの腕を掴むや、引きずるようにして会議室を離脱した。平面状の世界にのみ、自然の原材料から練り上げられた染料が描き出す非現実にのみ、親しんでいるような女が。
その日、Yは岸田のマンションに泊まった。彼女の学生時分の話は、想像していたより遥かに凡庸だった。
…──Y先生は憧れなんです。真面目で、生徒のみんなの気持ちを考えて、授業を組み立てているでしょう。
だから、お節介しました。
ここまで言わせた岸田の期待に応じられる余力は、Yになかった。
この春を期に、Yの日々は陰気になった。
生徒に好かれたがりはしない。生徒に軽んじられたなら、押さえつければ良いだけのこと。及第点さえ取らせれば良い。問題を起こしてはいけない。起こさせてはいけない。規律こそ、感情よりずっと確かな答えを導く。
数学の方程式も、一つのルートには一つの答えしか当てはまらないではないか。
あれから四年。
Yはクラスを受け持っていない。淡々と深緑の板に数字を連ねて、眠気をいざなう呪文のような理論を唱える。Yに担任をさせる学校になど行かせられない、断固と主張する保護者らの目を忍びながら、校則に管理された彼らの愛子達に数字で価値をつけていくだけの日々。