自由という欠落







「画材も、Yちゃんと同じ」

 筆をもてあそぶよりずっと優しく、岸田はYの硬く黒い髪に指を通して遊んでいた。

「決まった配合に従えば、決まった色になるだけ。数学なの。それだと絵にならないから、私が心を描き出すの」

「何が言いたいの」

「Yちゃんは、あの子と私の前だと、昔のYちゃんのままだなって」


 それだけで、私は十分、救われてる。


 Yはいたずらな恋人の片手を持ち上げて、唇で触れた。その指にまとわっていた毛先が乱れたのは気に留めない。



 岸田は孤独だ。過不及なく愛らしく、明るい身性、何より才能に恵まれている。あの職員会議で啖呵を切った翌日も、教員らは彼女を攻撃しなかった。そればかりか表向きYへの出様も柔和になった。生に関して不満も忿怒もないだろうに、彼女は沸々と彼女の世界で、静寂した咆哮を上げている。
 教師として社会に出た時、彼女は道に迷ったという。そこに理想的な同業者がいた。彼女のインスピレーションを補翼する女が。
 それがYにとって幸運だったのか否か。少なくとも初めての恋愛を経験した。何も握らず、もっぱら何かが抜け落ちていくだけの手のひらに、初めて得たものがあった。


 暮橋の愛した、暮橋に愛された少女。Yが彼女を最後に見たのは、彼女の最愛の上級生が消えた二年後の春だ。一年生だった天衣無縫の天使は、ぞっとするほど美しい見目になっていた。ぞっとするほどの空虚を抱えて。
 おそらくYとは別種の苦艱に苛まれたあの少女は、卒業式の参列の中で、本当に生きていたのだろうか。



「岸田」

 夜間の眠気がYを拘引しようとしていた。

 Yは岸田の手を握って、いつかの少女の指先を想う。


「今度のコンクール、貴女のテーマは?」


 岸田を包む雰囲気も、うつらうつらしている。それでも彼女は、敬愛して止まなかった女のために意識を奮う。


「縄だよ、Yちゃん」







第1章 がらんどうな方程式──完──
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