自由という欠落
「先生」
委員会が閉会してまもなく、ミルクのように甘い声がYを引き止めた。
昼休み終了の予鈴まで残すところ十数分ある。校内は間断なくさざめいており、懐こい声がYの耳に届いたのは、一種の奇跡だ。
「暮橋さん。何か?」
努めて教育者を意識した顔を向ける。それでいて高圧的にならないよう、あくまで親身な姿勢をとらなければならないのは、とりわけ彼女はYのクラスの教え子だからだ。
「疲れているみたいだから、差し入れです」
「え、……」
「家庭科の課題を遅くまでやっていて、一応、持って来ていたんですけど。先生の方が倒れそうだし……」
暮橋がYに差し出したのは、滋養強壮剤だ。どこのコンビニエンスストアや薬局でも見かける、オーソドックスで手軽な瓶。
逡巡を撒いてYは瓶を受け取った。暮橋は愛嬌を滲ませた笑顔できびすを返した。
遠ざかる教え子を見送って、Yは褐色のガラスが指先の熱を吸いかねないほど、強く瓶を握り締める。
生徒にまで心配かけるなんて。…………
教員の中では若年で、担任はまだ二ヶ月だ。生徒に嫌われていないか、軽んじられていないか、自分の教科をしかと教えることが出来ているか。憂事は尽きない。会議に集中出来なかったのも、生徒らが中心になって進む時間、深層心理が束の間の休息を求めたからだ。
清らかな少女だ。年相応の子供らの群れに誤って彷徨ってきた、天上の花園でぬくぬくと育まれてきた天使。
それはさすがに誇張の過ぎた喩えだが、Yが暮橋にいだいていた印象は、それだけ好感が占めていた。
身なりも素行も校則を外れる点はまるでなく、いつでも朗らかに微笑んでいる。教員が話しかければやんわり応じて、成績は可もなく不可もなく、属する仲良しグループはありふれた種類の団体だ。下級生の面倒見も良いと聞く。
滋養強壮剤にしても、Yが暮橋の気に入りという所以ではない。彼女は単純に、疲労を露わにしていた教師を目に留めて、自身の保険を譲ったまでだ。
こうした生徒ばかりではない、こうした生徒の方が珍しいから、教員らも下手に勉学に長けた子供より、暮橋を無意識の内に引き立てるのだ。