大江戸シンデレラ

「なにやら……浮かぬ顔をしておるな」

この世のものとは思えぬ美しさで舞う羽衣を、正面から見据えた近江守が、隣の舞ひつるに向かって盃を突き出していた。

脇息に手は置いているものの、すっと伸ばした姿勢は崩れていない。

御前(ごぜん)さま、申し訳のうなんし……」

慌てて銚子を手にした舞ひつるは、近江守の盃に御酒(ごしゅ)を満たした。

摂津国・灘五郷より樽廻船に乗って江戸に入津(にゅうしん)した「下り酒」だ。
樽の中で熟成し白く濁った酒は、甘くて深みのある味になった。

羽衣は、その名も「羽衣」を舞っていた。
三保の松原に降り立った天女が沐浴している間に、そのさまを見ていた男によって「天の羽衣」を隠されてしまう、という舞だ。

まだ幼き禿(かむろ)であった時分に、姉女郎だった舞ひつるの母・胡蝶から、『いずれ、おまえさんの名になる舞でなんしゆえ』と云われ、みっちりと仕込まれた演目だった。


「まるで……迷いごとでもあるかのごとき(うつ)ろな顔をしておるぞ」

近江守がくいっと盃を(あお)ったあと、ちらと舞ひつるを見たかと思えば、またすぐに目を羽衣へと戻す。

舞ひつるは、どきり、とした。

——人の上に立つお方は、お見通しなんし……


「……後々、悔いの残らぬようにやることだな」

近江守が遠い目をする。
前方で舞う羽衣よりも、遥か遠くのなにかを見つめていた。

「昨日まで息災であったはずの者が、明日いきなり(みまか)ってしまう話など、(ちまた)には掃いて捨てるほどあるぞ」

先達(せんだっ)て、極楽浄土に旅立ってしまわれた御子のことなのか……

「ならば……今日()れることは、しかと遣り(おお)せた方が良い」


—— (いな)や……なんとはのう、別のお人のことでもありんす気がしなんし……

舞ひつるには、さように思えてならなかった。

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