大江戸シンデレラ
「……しからば、刻が参ったゆえ」
身を起こした尚之介が、御納戸色の着物の前を整え、紋付きの黒羽織を羽織る。
束の間の逢瀬は、終わった。
御役目に戻るべく去っていく尚之介の背に、
——尚さま、どうかご無事に御役目を果たしておくんなんし……
今日もまた、胡蝶はきちっと居住まいを正し、手を合わせて見送る。
隠密廻り同心である尚之介は、その御役目ゆえにいつも危険がつきまとった。
「『風吹けば 沖つしら浪 たつた山 よはにや君が ひとりこゆらむ』」
〈風が吹けば沖で白波が立つという竜田山を、あなたはこの夜半に一人越えているのであろうか〉
胡蝶は、平安の時世に書かれた伊勢物語のうちの二十三段にものされた和歌を口ずさんだ。
夜半に峠越えをする夫を心配する妻の歌であるが、その夫が向かっている先は……
——もう一人の妻の家であった。
夫が妻の家へと通う「妻問婚」であった平安の御代の御公家様は、妻の実家が後ろ盾となって出世街道を歩んでいた。
さらに、複数の妻を持つことが赦されていて、実家に力のない妻は、いつ夫から離縁されても文句が云えなかった。
その和歌は、すでに親が亡くなり我が身に夫を支えてもらうべき実家がないがために、夫がほかの女の許へと向かうことを知りつつも……
それでも夫の無事を願わずにはいられない、妻の心持ちを歌っていた。
それはまた、御公儀に認められた正妻がいる尚之介への……
胡蝶の遣る瀬ない心待ちにも重なっていた。